井伊直虎(いいなおとら)といえば、江戸時代に大活躍した井伊家を語るうえでの欠かすことのできない重要人物です。
2017年の大河ドラマの主人公では、井伊家の姫なのに井伊家を継いで城主となり、徳川四天王・伊井直政を育て上げました。
今回、井伊直虎のかんたんな経歴、女で城主になった理由、男だった説がある?について、紹介していきますよ。
井伊直虎、プロフィール
浜松市マスコットキャラクター「出世法師直虎ちゃん」
名前:井伊 直虎(いい なおとら)
出身地:遠江国井伊谷(現・静岡県浜松市北区)
生誕:1536年頃?
死没:1582年9月12日
享年:46歳(死因不明)
時代:室町時代(戦国時代)~安土桃山時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
井伊直虎(いいなおとら)は、1536年頃に遠江国井伊谷(現在の静岡県西部)に生まれました。
父は、井伊谷城の城主・井伊直盛(いいなおもり)。母は祐椿尼(ゆうちんに)です。
直虎は、幼いころからあらゆる礼儀作法や教養を身に着け、たった一人の姫として大切に育てられます。
残念ながら、直虎に関する歴史的資料は少なく、詳しい生年や幼名が不明となっています。
井伊家は、平安時代の井伊共保(いいともやす)を初代とする武士の家で、代々井伊谷の地を守り、治めてきました。
直虎の生まれた頃の井伊谷は、今川義元(いまがわよしもと)の支配下にあり、力を持った武将たちが次々と戦いをいどんだ戦国時代です。
戦国の世で男の跡継ぎの居ない井伊家は、領土から領民の全てをうばわれる大きなリスクを抱えていました。
そこで、父・直盛の従兄弟で、直虎と歳の近い井伊直親(いいなおちか)を直虎のフィアンセとして迎え、井伊家を存続する予定でした。
しかし家臣の小野政直(おのまさなお)は、自分の息子・小野政次(おのまさつぐ)と直虎を結婚させて井伊家を乗っとろうと悪だくみします。
今川義元のライバルである武田信玄(たけだしんげん)と直親の父・直満が手を組んでいると嘘の情報を流し、直満・直親の親子の命を狙いました。
そして直満が命を落とし、直親もまた命を狙われ井伊谷を追われることになったのです。
直親(フィアンセ)の所在も生存もわからないままに時間が過ぎ、直親の死を悟った直虎は、わずか10歳で井伊家菩提寺の龍潭寺(りょうたんじ)で出家します。
実際に直親は信濃(現・長野県)に逃げ延び、生きていましたが、その事を直虎は知りませんでした。
この出家には直親への永遠の愛を誓う意味と、小野政次との結婚を避けるという二つの意味がありました。
そして、いつでも「還俗」できるようにと、男の名前で次郎法師(じろうほうし)と名乗ったのです。
「還俗」とは僧侶(男性)から一般人に戻る意味で尼(女性)は一般人に戻れないというルールが、当時あったのです。
次郎法師として仏門に入り修行に励む毎日が続いた1554年に、戦国和平協定の「三国同盟」が結ばれました。
「三国同盟」とは、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康(ほうじょううじやす)、駿河の今川義元の間で結ばれ、戦や武力による争いを止めようといった約束です。
この三国同盟をきっかけに、直親(フィアンセ)は身を隠す理由がなくなり井伊谷に戻りました。
直虎と結婚しようとしますが、直親には既に妻が居たことや直虎の適齢期が過ぎていたこと、そして何よりも井伊家の姫が側室となることを世間は許さずに二人は結ばれませんでした。
でも直親を当主にするために、直親を、直虎の父・直盛の養子に迎えて、改めて跡継ぎの心配が無くなった井伊家。
でしたが、その後に起こった織田信長vs今川義元の「桶狭間の戦い」で父・直盛が戦死します。
当主となった直親は、権力の弱ってきた今川よりも、これからの大活躍しそうな徳川家康と手を組もうと考えていました。
すると小野政次は、すぐさま今川にその情報を伝えてしまったのです。
これには、またしても小野政次の井伊家乗っ取り計画が背景にありました。
その頃、直親の息子・虎松(後の井伊直政)が誕生しましたが、裏切り者となった直親が今川氏真(義元の息子・うじざね)によって命を落とし、そして次々と行われる戦によって井伊家の男が戦死するという悲劇が続きました。
井伊家で残った男は、幼少の虎松だけという危機的状況になってしまったのです。
そこで、次郎法師だった直虎は還俗し、ここで直虎と名乗りは井伊家当主となりました。
しかし、その後も井伊家の危機は続きます。
村の男たちが戦に借り出された結果、農家も人手不足となり、皆苦しい生活を余儀なくされていたのです。
そこで、農民たちは立ち上がり徳政令(借金をチャラにする令)を出すように、井伊谷を支配する今川家に直談判しました。
農民たちの苦しい生活は、直虎に対する不満の表れでもありました。
さらにその陰には、不満を直虎へのクレームにとさせた小野政次がいたのです。
直虎は、農民たちの意見を聞きながら今川の指示を上手く交わし、徳政令をすぐに出すことはしませんでした。
徳政令を出せば、農民は助かるもののお金を貸している商人たちが商売を続けることが出来なくなり、井伊谷は経済パニックになってしまうと直虎は考えたのです。
だから被害を最小限に抑える準備を整えてから、やっと徳政令を出したのです。
結果、誰一人として血を流さずに済んだこの徳政令は、直虎の光る政治手腕として今もなお高い評価を得ています。
が、被害を最小限に抑えた徳政令は、今川氏真と小野政次から大きな反感を買い、命を狙われてしまったのです。
城主の座から降り、再び出家することで許されますが、城はついに小野政次に奪われてしまいました。
直虎は、祐圓尼(ゆうえんに)と名を改めて、出家した龍潭寺で暮らします。
そしてその様子を見兼ねた井伊谷三人衆の近藤康用(こんどうやすもち)・鈴木重時(すずきしげとき)・菅沼忠久(すがぬまただひさ)が、徳川家康に助けを求めました。
すると家康は直虎の力となり、小野政次を処刑。
井伊谷城を取り戻してくれたのです。
その後の直虎は、直親の忘れ形見である虎松の養母となります。
当時、戦国最強だった家康に近づき、虎松を大出世させるべく全てのエネルギーを注ぎ込みました。何よりも家康は、直親が手を組もうとしていた相手です。
そして46歳でこの世を去りました。
直虎亡き後の虎松は元服し、井伊直政(いいなおまさ)と改め、徳川家康の側近である徳川四天王として大活躍しました。
その後、井伊家は彦根藩主として、30万石の大大名となり、大老職を担う徳川政権の要となりました。
女で城主に理由は?
井伊直虎は、女で城主となった理由。
これはまあ、経歴でもふれていますね。
井伊直虎は、城主となることで、井伊家を守り存続させました。
女で城主となった理由は、多くの戦と家臣の裏切りによって、井伊家の男たちがみんないなくなってしまったためです。
井伊家に残された男は、当時たった2歳の幼い虎松だけになりました。
井伊家の血を引くものが居なかったために、虎松が大きくなるまでの間、直虎が城主となりました。
また当時は跡継ぎに男性がいない場合には女性が跡を継ぐこともありました。
井伊家伝記によると「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあり、次郎法師が井伊谷の地を地頭(=城主)として治めたとなっています。
そういえば、直虎という名前は、誰もが男性をイメージする勇ましい名前ですよね。
城主になる時に、気合をいれて改名したのでしょう。(・∀・)
男だった説がある?
実は井伊直虎には、男だった説があります。
これは2016年12月に、井伊美術館が発表したサプライズニュース。
かなり最近ですね。(・∀・)
これまでは、直虎が女の城主として井伊谷を治めたとされる理由は、井伊家伝記の「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」で、次郎法師(女)=直虎(女)からでした。
しかし、サプライズニュースの裏付けとなった、彦根藩筆頭家老・木俣守安(きまたもりやす)の子孫が書いた「守安公書記・雑秘説写記」によると、
「井伊谷の領地は新野殿(新野 親矩)の甥(男)の井伊次郎殿(関口氏経の子)に与えられた」
とあるのです。
ここで、直虎(男)=井伊次郎(男)説が浮上したのです。
新野親矩と関口氏経と直虎の母・祐椿尼は兄弟説があり、井伊次郎と直虎はいとこの関係です。
次郎法師と井伊次郎の、次郎ちがいということですね。
井伊家の伝記のとおり、女だった説のほうが正しそうですが、男だった説もデタラメではありません。
今後の調査がたのしみですね。(・∀・)
まとめ
ということで、
5分で井伊直虎について!女で城主になった理由や男だった説?でした。
井伊直虎をかんたんに語るポイントは、
・姫として生まれたけど、直虎と名乗り城主となった
・徳川四天王の井伊直政を立派に育て上げた
・時代に翻弄されまくりの人生だったけど、見事に井伊家を存続させた
・色々と調査中だけど、もしかすると男だったかも
・井伊家を語るうえで、欠かすことのできないキーマン
最後まで読んでいただきありがとうございます^^