鎌倉時代

北条時宗とは何した人?経歴やエピソードなど簡単に分かり易く紹介

北条時宗(ほうじょう ときむね)といえば、2度にわたって日本を攻撃してきた元寇(げんこう・モンゴル帝国の日本侵攻)に、果敢に立ち向かった鎌倉幕府の第8代執権です。

最大のピンチに陥った日本にあの神風を呼び、国を守り抜きました。

今回、北条時宗のかんたんな経歴人物エピソードについてご紹介します。

 

北条時宗、プロフィール

名前:北条 時宗 (ほうじょう ときむね)
出身地:相模国(現・神奈川県鎌倉市)
生誕:1251年6月5日
死没:1284年4月20日
享年:34歳 (病死)
時代:鎌倉時代

 

かんたんな経歴、何した人、どんな人?

条時宗は、1251年に父・北条時頼(ほうじょうときより・鎌倉幕府第5代執権)の子として、相模の国(現在の神奈川県)に生まれました。

父と側室との子に、兄となる時輔(ときすけ)がいましたが、時宗は正室の子であったため、小さいころから家督を継ぐのは時宗として、大きな期待を背負い育ちました。

 

父・時頼が亡くなった翌年の14歳のときに連署(れんしょ)という幕府の重要なポジションに就任しました。

連署とは、将軍に代わって政治を行っている執権(しっけん)のサポートをするのが仕事です。

 

1268年、18歳になると連署から執権という幕府の実質的なリーダーへと大出世します。

当時の鎌倉幕府は悲しいことに、将軍はただのお飾りでしかなく事実上のトップは執権である北条一族が握っていたのです。

 

そして、その頃日本は史上最大のピンチに見舞われることになりました。

というのも、中国大陸ではフビライ・ハンが巨大な国であるモンゴル帝国を作っていました。

その大物リーダーであるフビライ・ハンから日本に手紙が届きます。

その内容は、「我が率いるモンゴル帝国は、大きな国で近隣の国たちみんなが自分に従い親しみを持っている。だから、日本も我が国と仲良くしよう!従わないと、攻撃するぞ!」といったものでした。

つまり、「日本も我が国に従いなさい」ということです。

 

しかしこの一方的な上から目線の手紙をなんと6回も受け取った時宗でしたが、返事をするわけでもなく使者を送るでもなくひたすらムシを続けたのです。

無視を続ける一方で、フビライ・ハンの攻撃に備えて九州の武士たちに着々と戦争の準備をさせていました。

 

んな大困難の中で、「二月騒動」という事件が起きます。

兄・時輔が朝廷と手を組み時宗から政治の座を奪い取ろうと目論んでいましたが、すぐに時宗にバレてしまいました。

そして時宗に殺害されました。

時宗は、国と国との大きな戦いに備えて、北条一族がモメている場合じゃないと判断したのです。

 

いに、フビライ・ハンは予告通りに日本を攻撃してきました。1274年「文永の役」です。

当時の日本の武士たちは、「我は○○である~」と名乗るのがルールでした。

しかしそのルールが、外国のモンゴル帝国にはまったく通用せず、爆発物がどんどん使われ日本は窮地に立たされます。

 

しかし、ここであの伝説の「神風」が吹いたのです。

神風とはつまり暴風雨であり、日本軍の追い風であり、神がかった強運のこと。

 

海は大荒れで元寇たちの船は沈み翌朝には日本から姿を消しました。

そしてまた元寇がくることを予測し、石の防御壁を作り備えました。

これは現在もその姿を一部残し、史跡に指定されています。

 

そしてまた予想通りに7年後の1281年に、前回を上回る大軍で再び元寇が襲ってきました。「弘安の役」です。

時宗が作らせた石の防御壁が役にたち、そしてまたしても神風が吹いたのです。

モンゴルの船と兵は、たちまち波に飲み込まれ瞬く間に姿を消したのです。

 

度も大国であるモンゴル帝国との戦いに見事勝利した時宗でしたが、勝利に大活躍した武士たちへの報酬を与えることが出来ずに大いに悩み苦しみます。

鎌倉時代の武士たちは、戦に勝ったら土地をご褒美として貰えるシステムでしたが、モンゴル帝国との戦に勝っても相手の領地を奪いとっていないため土地をあげることができなかったのです。

このシステムが時宗を酷く悩ませました。武士たちの不満もたまっていたのでしょう。

そして1284年になんと34歳という若さでストレスによる病に倒れこの世を去ることとなりました。




なにか人物エピソードはある?

宗がまだ幼かった日の出来事です。

将軍宗尊親王(むねたかしんのう)と父の時頼たちとともに馬術のレッスンをしていました。

小笠懸(おがさがけ)という、馬に乗ったまま小さな的を目掛けて弓を射るゲームを楽しんでいましたが、誰も的に当てることはできずにただ時間だけが過ぎていったのです。

 

そこで宗尊親王が、誰か上手に射れる者はいないのか?の声に父・時頼は、幼い時宗にチャレンジさせました。

周囲の期待に応えて見事一発で的を射止め大成功させました。

このことから、宗尊親王の宗の1字を賜り時宗と名乗り、わずか7歳で元服(成人の儀式)をしました。

周りの者が誰も成し遂げる事の出来なかった小笠懸を幼い時宗が一発で成功させるなんて、この頃から将来の大物ぶりを感じさせるエピソードです。

 

北条政子との関係?

「北条」という事で、ほかの北条たちとの関係はあるのでしょうか。

これはまあ早い話が、北条政子も、北条時政もほとんどみんな親戚です。

北条早雲の一族のせいでちょっとややこしく感じますが。

簡単な家系図を貼っておきますよ。(作成中)

>>>北条早雲とは何した人?北条政子や北条時宗とはまったく関係ない?

まとめ

時宗は、鎌倉幕府の第8代執権となるも、幾つもの困難に遭い立ち向かった人生でした。

当時、世界最大国であるモンゴル帝国からの手紙をシカトしつつも、戦の準備を始め、一方で兄の裏切りがわかると、すぐに殺害したりと判断力と行動力を兼ね備えたリーダーでした。

そして、2度にわたる元寇の襲来では、神風(暴風雨)を呼び勝利に導きました。

1度ならず2度も神風を呼べたのは、常日頃からの信仰心の厚さから天が味方してくれたのかもしれません。

時宗を名乗ることなった小笠懸大成功や神風も時宗だからこそ成せた事でした。

 

ということで、
北条時宗とは何した人?経歴やエピソードなど簡単に分かり易く紹介でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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