北条早雲(ほうじょうそううん)といえば、「最初の戦国大名」として有名ですね。
彼から「戦国時代」がはじまったのです。
今回、北条早雲とは何した人なのか、かんたんな経歴、北条政子や北条時宗との関係を、簡単にわかり易く紹介していきますよ。
北条早雲、プロフィール
北条早雲(ほうじょうそううん)
出身地:備中(岡山県)
生誕:1432年
死没:1519年8月15日
享年:88歳(病死)
時代:室町時代
北条早雲って何した人?どんな人?
北条早雲は、「最初の戦国大名」です。
自らの力で、伊豆、小田原の領土を手に入れ、その後も農民を大切にしました。
ここでは、北条早雲の経歴を簡単にわかり易く紹介していきますよ。
かんたんな経歴
当時、室町幕府の権力はおとろえていました。
地方では、実力のある守護大名(地方を支配した領主)が、幕府を無視して領地を支配するようになっていました。
またその中でも、守護大名の家臣が、主君を倒し、権力をにぎったりもしていました。
このように、実力で地方を支配した領主を「戦国大名」といい、戦国大名たちが全国統一をめざした時代を「戦国時代」といいます。
北条早雲は「最初の戦国大名」で、彼が伊豆をうばった1493年から「戦国時代」がはじまったという人もいるのです。
北条早雲は、もともとは室町幕府(京都)の家臣でした。
駿河(静岡県)で後継ぎ争いが起こった時、早雲は京からかけつけて争いを解決します。
この手柄によって、駿河の興国寺城(こうこくじじょう)の城主となりました。
そして伊豆(静岡県)は、当時、足利氏が支配していたのですが、伊豆でも後継ぎ争いが起きていました。
「今なら伊豆をうばえる!チャンス!」と考えた早雲は、わずかな兵をひきいて足利氏の館をおそい、実力で伊豆をうばいとったのです。
早雲は伊豆に韮山城を築くと、次は小田原城(神奈川県)をうばいます。
さらに東へ攻めて、三浦半島もうばいました。
相模(神奈川県)の領主となった早雲は、農民を大切にする政治をしました。
田畑の面積や、取れた米の量などをくわしく調べて年貢を減らし、農民にやり過ぎな負担がないような政治にしたのです。
北条政子や北条時宗とは、名字が同じだけどどんな関係?
「北条」といえば、北条早雲、北条政子、北条時宗などいろいろな有名人がいますね。
同じ北条ならみんな関係があるの?って事ですよね。
これは、実はあまり関係がありません。というか、全然関係ありません。
さらに、北条早雲は「北条」とは名乗っていません。
息子の代からです。
早雲が生きている時は、伊勢宗瑞(いせ そうずい)と名乗り、呼ばれていました。
なぜ北条を名乗りだしたのかというと、北条早雲(の息子)は、関東の大名だったため鎌倉時代の「北条」を尊敬し、あやかって「北条」と名乗りだしたのです。
だから、鎌倉時代の「北条」と、北条早雲からの「北条」は、まったく関係ないのです。
北条時宗も、鎌倉時代の武将ですから関係ありません。
北条政子、北条時宗については、こちらの記事で簡単にわかりやすく紹介していますよ。
まとめ
北条早雲は「最初の戦国大名」で、戦国時代を開いた人物でもあるのですね。
実力で領土を手に入れて、農民を大切にする政治をおこなったということで、相当なやり手であることがわかります。
「北条」は「北条」でも、鎌倉時代の「北条政子」らとはまったく関係がなかったのですね。
のちに、勝手に名乗りだしたようです。
北条早雲は、現代でもけっこうな人気の偉人です。
ということで、
北条早雲とは何した人?北条政子や北条時宗とはまったく関係ない?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^