保科正之(ほしなまさゆき)といえばNHK大河ドラマ「八重の桜」でも有名な、会津藩の初代藩主です。
信じられないくらい有能で、徳川二代目将軍・秀忠の実子なんですが、実は正室でも側室でもない母から生まれたといわれています。
今回、保科正之のかんたんな経歴、その逸話とともに、母親は側室でも正室でもないという複雑な出生にせまっていきます。
保科正之、プロフィール
保科正之(ほしなまさゆき)
出身地:江戸
生誕:1611年6月17日(慶長16年5月7日)
死没:1673年2月4日(寛文12年12月18日)
享年:61歳
時代:江戸時代前期
何した人?どんな人?
保科正之は、「この人のおかげで江戸幕府が長く続いた」、といわれるほど、幕府の基礎固めの時期に貢献した人です。
とっても名君で、最後まで幕府とともに戦ったのでした。
ここでは、保科正之のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
保科正之は、徳川2代目将軍・秀忠の実子として江戸に生まれました。
身元は明かされず、武田信玄の次女である見性院(けんしょういん)の元で養育されます。
最後に見性院の縁で、旧武田氏家臣の保科正光(ほしなまさみつ)の養子となり、保科を継ぐという、ちょっと変わった人生を歩みます。
成長した正之は、今でいう幕僚(ばくりょう・指揮官の補佐)のような仕事に就きました。
この時、徳川幕府は3代将軍・家光の時代。
正之の素直で謙虚な人柄にほれ込んだ家光は、彼をとても信頼し、その関係は生涯つづいたのです。
将軍・家光の信頼がとても厚かった正之。
4代将軍・家綱の後見人的な立場になった彼は、最善の政治を行い、江戸幕府が長く続く決定的な政策をいくつも打ちたて実施しました。
彼が活躍したのは政治の場だけではありません。
家光は死の直前に彼を呼び、「徳川を頼む」と言い残したそうです。
その信頼にこたえるべく、保科正之は1668年(寛文8年)に『会津家訓十五箇条』を定めました。
特に幕末の悲劇で知られている会津藩が代々守り続けたこの教えの第一条には、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記されています。
逸話、エピソードって
江戸幕府が長くつづいたのも、この保科正之の活躍によるもの。
そんな、もの凄い人物、保科正之のかっこいい逸話やエピソードを紹介していきます。
中でも特に、彼の清廉潔白な仕事ぶりが分かるものを紹介します。
1657年(明暦3年)1月18日のこと。
史上最大といわれている「明暦の大火(めいれきのたいか)」が起きます。
「明暦の大火」とは、江戸の大半が火事で焼失した大事件です。
原因は、お寺で3人の女が振袖を焼いたことでした。
江戸は真っ赤に染まりました。江戸城にも火の手が近付いてきます。
城内はまず将軍・家綱をどこへ避難させるかでてんやわんや。
なんとか城外へ逃がそうとする意見が錯綜する中、保科正之はあくまで江戸城内の避難場所を提案しました。
「災害の渦中で将軍が城を出て転々とするなんてとんでもない」と考えたのです。
これは今に通じる的を得た理論でした。
確かに政治家のトップが災害時にもし逃げ出したら、国民はマジヤバい!ってなりますよね。
それが分かっていた保科正之は、将軍家綱を江戸城に置くことで民衆が少しでも落ち着けるように取計らったのです。
この大火で江戸城の天守閣も燃え尽きました。
城の天守閣は、武士が政権を握っている象徴なので、なにより優先して再建を進めていたのですが保科正之は、ここでもまた今の政治家にぜひとも見習って欲しい意見を言います。
「天守閣なんてただの飾り。そんな金があるなら今は江戸の町の復興を優先すべきである。」
素晴らしすぎますね!(・∀・)
結果、天守閣再建にかかる費用は江戸の街を復興させることに使われ、天守閣が再建される事はありませんでした。
天守閣はなくなりましたが、正之のお陰で江戸は安全な町づくりがされ、やがて100万人都市へ発展していったのです。
この善政がなければ今の東京や日本はなかったとさえいわれているのが分かる、ものすごいエピソードです。
また、会津藩では90歳以上の老人に対する年金制度がありました。これも保科正之が制定したものです。江戸時代にすでに年金制度を確立していたなんて、先見の明が高すぎます!
母は正室でも側室でもない?
保科正之の母親は、正室でも側室でもないのです。
実の母は、父・徳川秀忠(2代目将軍)の、乳母に仕えていた「静」という女性。
彼女の身分は、けして高くありませんでした。
秀忠の乳母に仕えていたそうで、その縁で秀忠とそういう関係になったのでしょう。(・∀・)
しかし父・秀忠の正室は、あのお江与様。
「浅井三姉妹」として有名で、日本でたぶん一番有名な3姉妹の一番下です。
そんなお江与様は、とても嫉妬深かったのだとか。
とにかく父・秀忠はこの正室に頭が上がらなかったそうです。
当時は側室を持てたのですが、正室が認めなければ側室を増やせませんでした。
恐妻家の秀忠は、そんなことお江与様に言えません。
だから、自分の子供を産んだ静を正式に妻として迎えることができなかったのです。
保科正之の不遇な幼少期の原因は秀忠が恐妻家ということにあったんです!
それにしても、父・秀忠の正室もなかなか強烈な人物です。
「浅井三姉妹」の一番下で、日本で1番有名な三姉妹なのです。
姉で次女の初(はつ)も嫉妬深かったようですね。
こちらの記事で、浅井三姉妹についてかんたんにわかりやすく紹介しています。
まとめ
「幕府の政策」を「幕政」、といい、これは国政みたいなものなんですが、正之は同時に自分の藩である会津藩の藩政にも力を入れました。
もう、大臣と知事を兼任して両方で成果を挙げるという猛烈な偉業を成し遂げた人だったですね。
ということで、
保科正之を5分で!その逸話や母は側室でもない?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^