「本能寺の変」といえば、めっちゃ有名ですよね。あの織田信長が死んだ事件です。
なぜ明智光秀は信長を裏切ったのか、いろいろな逸話がありますが、一体どれが本当なのでしょうか。
未だ完全には解き明かされていませんが、本能寺の変を簡単にわかり易く紹介していきますよ。
本能寺の変とは?簡単に紹介
まず本能寺の変について簡単に説明します。
これは1582年、明智光秀が主君である織田信長を裏切り、京都の本能寺に泊まっていた信長を襲撃した事件ですね。
光秀が本能寺を襲撃し、完全に包囲しました。
この時、明智軍は約13,000人。織田軍は約30人。
この日、自分が死ぬことを悟った信長は、寺に火をつけ切腹。華やかに死んだというもの。
その後信長の死体は発見されず、現在まで発見されていないのです。日本史では最も謎な事件のひとつです。
わかりやすいのだと、こんな感じですね。(・∀・)
信長が包囲された事を聞いた嫡男・織田信忠は本能寺に駆けつけます。が、すでに寺が燃えていたのだそう。
信忠も明智軍と戦いますが、圧倒的人数に圧され最後は切腹します。
この本能寺の変で日本は「いくさの時代」が終わりに向かい始めたのです。そのため日本で最後の下克上と言われています。
その後、この事件を聞いた秀吉は激怒。その時ケンカ真っ只中だった毛利氏ととりあえず仲直りし、明智光秀を倒すために全軍で京へ向かいました。
この全軍を率いた大移動の事を「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」といい、学校のテストにも出てきたことでしょう。現在の岡山から京都、200kmほどを移動したそうですよ。
そして秀吉は、主君の仇・明智光秀を撃破したのです。
本能寺の変のいろいろな説
この本能寺の変。いろいろと謎が多いのですね。
なぜ光秀はこんな反乱を起こしたのか。はっきりとした理由は分かっていない事もあり、現在でも色々な説が飛びかっているのです。
「日本史の謎」「永遠のミステリー」と呼ばれる本能寺の変の、本能寺の変のいろいろな説を紹介していきますよ。
信長、生き延びた説
本能寺の変の後、信長の死体は発見されていないのですね。
光秀も全力で探したようですが、出てきていません。現代までずっと出てきていないのです。
これが日本史上、最大の謎のひとつで、「もしかしたら逃げ延びてひっそり暮らしていたんじゃ?」なんて一部で言われているのです。
が、信長の性格上、それはありえないでしょう。もし生きていたら間違いなく仕返しにいくでしょ。(・∀・)
明智軍の兵たち、敵が信長だということを知らなかった説
この時期に信長は家康を倒す計画を立てていたのです。天下統一が見えてきた信長にとって、家康が邪魔だったのです。
その計画を知っていた兵たちも「本能寺にいるのは家康だと思っていた」とのこと。
あんまり信用できない説ですが、どうなんでしょうね。(・∀・)
光秀、ふつうに天下取りたかった説。
光秀が反逆した理由がはっきりしていないのでしたね。
ひとつの通説として、「光秀がふつうに天下ほしかったんじゃね?」と言われています。
確かにこの事件の後、秀吉に討たれるまでの十数日、光秀は実質天下人となりました。
この権力をもった期間がとても短いことを「三日天下(みっかてんか)」と言い、現代でも使われていますね。
信長がイジメすぎたから説
光秀は信長にめっちゃ気に入られていたそうですが、その分イジりまくりだったとか。
まずあだ名が「ハゲ」。(当時みんなハゲじゃないですか?(・∀・))
「俺の酒が飲めないのか!」と刀を突きつけたり、理不尽に皆の前でボコボコ殴られたりしてたのだそう。
他にも、色々あって「こいつ、いつか殺そう」と思われていたんですね。
光秀はとても優秀で、鉄砲は百発百中、政治面でも任せる役割も大きいなど、信長のお気に入りだったそうですが、信長様はツンデレなんですね。
黒幕が秀吉説
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が黒幕だという説もあります。
理由としては、本能寺の変の後、秀吉の動きが異常なほどにスムーズだった事です。
戦していた毛利とのタイミングの良すぎる停戦や、中国大返し(全軍を率いて京まで大移動)など、その後の光秀討伐までの手際が、見事すぎたのですね。
実際にその後天下をとったのは秀吉で、本能寺の変で一番恩恵を受けたのは秀吉と見ても良いでしょう。
秀吉は、光秀を倒し「主君を反逆した光秀を、秀吉が成敗した」といういい感じの世間体が出来上がっています。
しかし本当は、謀反を起こす事をすでに知っていて、秀吉もその後の準備をしていたのでは・・・。さらに言えば、秀吉が光秀をそそのかし、その後裏切ったのでは・・・。
あながち、デタラメでもないでしょう。
黒幕が徳川家康説
家康には信長を恨む理由があるとのこと。
家康の妻・築山殿(つきやまどの)を信長の指図で、家康が殺害します。
そして長男である信康の切腹も、家康が信長に命令されて実行したと言われているのです。
これが本当だとしたら、家康は絶対に信長の事が憎くて恨んでいた事でしょう。
そして、「天海の正体が明智光秀説」も関係しています。
天海といえば、僧であり家康の右腕。家康も天海の意見はめっちゃ参考にしていたそうです。
つまり「黒幕である家康が光秀に信長襲撃命令をだし、その後光秀は天海として家康に仕えた」というもの。
まあ、これは完全にデタラメというか都市伝説でしょう。(・∀・)
こんな感じでいろんな説が勝手に囁かれているのですね。
通説は、「ふつうに天下取りたかったから」か「信長が本気で嫌いだったから」です。でもいろいろな説があるのも面白いですよね。
戦国時代はほんとうにロマンがありまくりです!
元々、織田信長と明智光秀の関係は?
もともと信長と光秀はどのような関係だったのかが気になります。簡単に紹介してみましょう。
光秀からしたら、信長は主君です。光秀は信長に仕えていたのです。
光秀を見出した信長は、光秀を重臣にして政治面でも大きい仕事を任せたりします。それに光秀は戦でも強く、鉄砲は百発百中だったそう。
光秀は信長の、かなりのお気に入りだったのですね。
しかしツンデレ信長様。
徳川家康の接待役という大役を任されていた光秀ですが、信長の命令で秀吉の援護にされたり、皆の前で理不尽に殴られたり蹴られたり。
他にもキツイ仕打ちの連続で、光秀も信長の事を恨んでいたのでしょう。本能寺の変での反逆が不思議ではないほどに。
信長も本能寺の変で、大群の敵に囲まれた悟った時、「是非に及ばず」(確認する必要なし)と言ったのですよね。
これも、この大群は光秀の大群だと聞いて、「本当に光秀なのかどうか確認する必要はない」ということ。反逆される事に思い当たる事があったのでしょうか。
もしかしたら、信長は光秀の能力は認めつつも、光秀という人間をあまり好きではなかったのかもしれません。
元々から傾奇者で自由奔放な信長と、マジメな光秀では性格が合わなかったと言われています。
こちらの記事で信長、光秀をわかり易く紹介しています。
まとめ
本能寺の変について紹介しました。
いろいろな説があって面白いですが、やっぱり真実が知りたかったりもします。それがまたロマンというやつなのでしょうか。
織田信長と明智光秀の関係も、少しは見えてきたでしょうか。やっぱり元々気は合わなかったっぽいですね。
「日本史最大の謎」とも言われる本能寺の変ですが、なぜ光秀は謀反を起こしたのか。やっぱりもうちょっと真実が知りたいと思ってしまいました。
ということで、
本能寺の変を簡単にわかり易く!織田信長と明智光秀の関係、光秀はなぜ裏切った?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^