大正時代

5分で平塚らいてうについて!女性解放運動とはどんなものだったの?

平塚らいてう(ひらつからいちょう)といえば、フェミニスト(男女平等論者)として有名ですね。

「元始女性は太陽であった」のフレーズが有名です。

今回、平塚らいてうのかんたんな経歴女性解放運動とはどんなものだったの?について、紹介していきますよ。

 

平塚らいてう、プロフィール

名前:平塚 らいてう(ひらつか らいちょう)
出身地: 東京府麹町区(現・東京都千代田区)
生誕:1886年2月10日
死没:1971年5月24日
享年:86歳(胆嚢・胆道癌)
時代:明治時代から昭和時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

塚らいてうは、父・定二郎と母・つやの三女として、東京市麹町区(現・東京都千代田区)に生まれました。

本名は平塚明(ひらつかはる)と言います。

ご先祖は、豊臣秀吉に仕えていた、戦国武将の平塚為広(ひらつかためひろ)です。

 

・定二郎は、政府の役人で、お偉いさんでした。

そのため、平塚家は大変裕福で、西洋風のお洒落な生活を送り、らいてうは何不自由なくお嬢様として育ちます。

小学校に入って間もない頃、突然、お洒落な西洋風の生活から日本古来の伝統を重んじる生活へ一変しました。

これは、国粋(こくすい)主義によるもので、急速に広がった欧米文化に対し、日本の歴史や文化をリスペクトする思想です。

父もこれの影響をうけたのです。

 

学校卒業後、国粋主義の影響を受けた父の考えにより、東京女子高等師範学校(現・お茶ノ水女子大学附属中学・高等学校)に通いました。

高校卒業後、女性に教育は不要だと考える父をなんとか説得し、日本女子大学校家政科に入学しました。

らいてうは、この学校の教育方針の「女子を人として、婦人として、国民として教育する」に惹かれたのです。

 

しかし日本が日露戦争に進み、軍国主義が高まると、この教育方針も色褪せてきました。

らいてうは、その心の隙間を埋めるように、宗教や哲学に関する本を読み、禅道場「両忘庵」に通います。

大学卒業後に更なる教養を求めて、女子英学塾(現・津田塾大学)成美女子英語学校に通いました。

 

のうち、ドイツの文豪ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に感銘を受け、文学に興味を抱いたのです。

東京帝大(現・東京大学)卒の教師・生田長江(いくたちょうこう)らが主催する講座「閨秀文学会」に参加します。

そして「愛の末日」で作家デビューしました。

 

らいてうは、「愛の末日」を読んだ既婚者・森田草平(もりた そうへい)からラブレターを受けとり、二人は親密な交際をスタートさせたのです。

つまり不倫ですね。(・∀・)

 

1908年3月、二人で心中未遂を起こした塩原事件は一大スキャンダルとなります。

そのとき、らいてうは顔写真と一緒に、デタラメなことを新聞に書かれました。

この報道がきっかけで女性のあり方や生き方、フェミニズム(性差別を廃止し、男女平等を主張する思想)について関心を持つようになります。

 

1911年にフェミニスト団体「青鞜社(せいとうしゃ)」を創りました。

日本初の、女性のためだけの月刊誌「青鞜(せいとう)」を出版し、男女差別問題や婦人解放を世間に訴えかけました。

青鞜の初刊で、「元始女性は太陽であった」と書き、ここで「らいてう」を名乗りました。

「らいてう」とは、自由に羽ばたき気品ある雷鳥に由来しています。

 

1912年、画家を目指す5歳年下の青年・奥村博史と出会い、籍は入れずに事実婚を開始しました。

奥村との間に二人の子供を授かりますが、未婚の母として育てます。

奥村と二人の子供との生活が中心になると、青鞜社から離れました。

 

1918年、青鞜社でいっしょに活動していた与謝野晶子と、働く女性と子育てに関するテーマ「母性保護論争」を繰り広げ、世間をにぎわせます。

1919年、日本初の婦人運動団体として「新婦人協会」を設立。

女性の政治参加や、社会的地位の向上を目的に活動しました。

 

設立からわずか3年で、病気がちな奥村の看病疲れもあり協会から去り、執筆活動に専念する生活を送ります。

また、未婚の母が世間に受け入れられずに、長男の徴兵にときには、いやがらせを受けないために、やっと奥村家の籍に入りました。

 

の後、世界規模で起きた大恐慌や太平洋戦争中は、自身の思想や自伝の執筆を続けながら一般消費者の生活向上を目指し消費組合運動に力を入れ活動します。

戦後は、共産党思想のもとで、婦人運動と平和運動に力を尽くしました。

 

1953年、日本婦人団体連合会の初代会長となり、反戦と平和を訴え続け、1962年に絵本画家・いわさきちひろ らと、「新日本婦人の会」を結成しました。

晩年は、ベトナム戦争の反戦活動や平和運動にに取り組み、自伝を書き続けました。

1971年5月、病により85歳でこの世を去りました。

 




女性解放運動とはどんなものだった?

性解放運動とは、どんなものだったのでしょうか。

平塚らいてうが生きた明治時代は、「男尊女卑」「良妻賢母」は当たり前の世の中でした。

女性は政治に参加する参政権もなく、結婚を前提としない男女の交際はタブーとされてきたのです。

男尊女卑や良妻賢母にイメージされる女性ではなく、一人の人間として政治に参加し子供を生み育てられる社会を目指し女性の自立と自由を求めました。

らいてうは、日本にフェミニズムを起こし、フェミニストとして女性の政治参加を社会にアピールしました。

日本においてはある意味、革命家だったのです。

 

まとめ

平塚らいてうは、女性の社会的地位の向上と世界平和に人生を捧げました。

社会的バッシングを受けても、自分の育んできた精神や思想を変えることなく突き進んだ強い女性です。

現代の日本社会で女性が活躍できるのは、元はらいてうの活動があったからこそだと思います。

 

ということで、
5分で平塚らいてうについて!女性解放運動とはどんなものだったの?でした。

 

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りょーま(管理人)
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