後醍醐天皇(ごだいごてんのう)といえば、鎌倉幕府をほろぼして「建武の新政」という政治をした人物ですね。
今回、後醍醐天皇のかんたんな経歴、本当に島流しにあったのか、吉野に逃げて南朝を開いた件など紹介していきますよ。
後醍醐天皇、プロフィール
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
出身地:京(京都市)
生誕:1288年11月26日
死没:1339年5月25日
享年:52歳(病死)
時代:鎌倉時代-室町時代
何した人?どんな人?
後醍醐天皇は、鎌倉幕府をほろぼした人物です。
そして「建武の新政」という天皇中心の政治するものの失敗した、96代天皇ですね。
ここでは、後醍醐天皇のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
1331年、なんとかして天皇中心の政治を取りもどしたかった後醍醐天皇。
鎌倉幕府を倒すために、計画を練っていました。
しかし、計画をたてていることが幕府にばれて、隠岐島(おきのしま・島根県)に、島流しにされます。
その後、逃げて兵をかき集めると、鎌倉幕府に不満をもつ武士たちが「幕府を倒そう!」と立ち上がりました。
この時、楠木正成(くすのきまさしげ)、足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)ら、優秀な人物たちも集まります。
彼らの活躍で、鎌倉幕府はほろびました。
すると、後醍醐天皇は「建武の新政」という政治をはじめました。
これは、天皇中心の政治で、貴族や公家を出世させて、武士たちは出世できないものでした。
とうぜん、鎌倉幕府を倒すために、命がけで戦った武士たちの心は後醍醐天皇から離れていきました。
この時に、足利尊氏も後醍醐天皇と仲がわるくなります。
そして、足利尊氏は、鎌倉で反乱を起こします。
後醍醐天皇は、まわりの人たちから、「足利尊氏と仲直りしよう」と言われるも、断りました。
そして尊氏に敗れると、後醍醐天皇は吉野(奈良県)ににげます。
後醍醐天皇は、にげた吉野で、「南朝」とよばれる朝廷を開きます。
足利尊氏は、京で「北朝」を開かせ、「室町幕府」をひらきます。
後醍醐天皇は、その3年後に病死しました。
どうしても、現代では不人気な偉人の1人ですが、それだけインパクトのある偉人だともいえます。
こちらの記事で、室町幕府をひらいた、ライバル・足利尊氏について、かんたんにわかり易く紹介しています。
>>>5分で足利尊氏!室町幕府をひらいた場所が京都の理由って?
足利尊氏を信じ、息子を殺す
後醍醐天皇の息子。第1皇子・護良親王(もりよししんのう)。
護良親王は、足利尊氏が反乱を起こすのでは?と怪しみ、父・後醍醐天皇に「気をつけて」と注意しました。
ところが逆に、後醍醐天皇は、足利尊氏が言った「あなたの息子・護良親王が反乱をたくらんている」という言葉を信じ、息子をろうやに閉じこめたのです。
父への思いが届くことなく、息子はやがて殺されてしまったのでした。
島流しにあったことがあるとかないとか?
後醍醐天皇は、島流しにあったことがあるとか。
これは、さっき上に書いてあるとおりです。
じっさいに、隠岐島(おきのしま・島根県)に島流しにされています。
理由は、
・鎌倉幕府をたおそうと計画を練っていたこと
・「鎌倉幕府がほろびますように」などと祈っていた
などが、幕府にばれたためです。幕府によって島流しにされました。
隠岐島(おきのしま)は、島根県ですから、日本海です。
周囲は岩場で、荒っぽいとのこと。
逃げるために船にのったら、沈没の恐れもあります。
島流しは、逃げられない場所に追放するものですから、どうやって逃げたのか、気になるものです。。。(・∀・)
吉野に逃げたって?南朝ってなに?
後醍醐天皇は、足利尊氏に攻められ、京をうばわれます。
そして、吉野(奈良県)に逃げて、南朝をひらいたのですね。
南朝ってなに?(・∀・)
って事でしたね。
これは、「南朝」があれば、「北朝」もあります。
超かんたんに言うと、
「北朝」は、光明天皇の政府(京)
「南朝」は、後醍醐天皇の政府(吉野)
ですね。
このときから、天皇が2人になって、争い、それが60年近くつづきます。
やがて、合体しますが、明治時代に、どちらが正統なのか、かなりもめました。
そして明治天皇は、「南朝を正統とする」と決定したのでした。
まとめ
後醍醐天皇を5分で!ホントに島流しにあった?吉野に逃げて南朝を開く?でした。
後醍醐天皇をかんたんに語るポイントは、
・鎌倉幕府をたおした
・「建武の新政」といわれる天皇中心の政治をするが、武士の不満がたまり失敗する
・武士を束ねる足利尊氏に敗北、京をとられる
・吉野(奈良県)に南朝をひらいた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^