室町時代

明智光秀を5分で知る!天海だった説や家紋、子孫末裔はいる?

明智光秀といえば、まずは「本能寺の変」を思い浮かべるでしょうか。

信長を死に追いやった張本人ですが、そもそもどんな人だったのでしょうか。

今回、明智光秀について、偉業やエピソード、現代に子孫末裔はいるのか。家紋が日光東照宮にある理由天海は明智光秀だった説など、カンタンに紹介していきますよ。

 

明智光秀、プロフィール

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明智 光秀(あけち みつひで)
生誕:享禄元年(1528年)
死没:天正10年6月13日(1582年7月2日)
時代:室町時代(戦国時代) – 安土桃山時代

織田信長の重臣

 

偉業

明智光秀といえば、どのような人物でどんな事をした人なのでしょうか。

ここでは、明智光秀の偉業をカンタンに紹介していきます。

 

本能寺の変で天下人に?

偉業と胸を張っているかは分からないですが、明智光秀といったら「本能寺の変」で信長を死に追いやった張本人です。

この事件で信長は死に、光秀はたった13日間ですが天下人となったのです。これを「三日天下」とよく言われていますね。

この事件で「裏切り者」ともいわれ、世間でも同じ家紋をつけていた家は一斉に家紋を変えだしたらしいですよ。

 

本能寺の変については、こちらの記事でわかり易く紹介しています。

>>>本能寺の変を5分でカンタンに!織田信長と明智光秀の関係は?

 

 

織田家の最高幹部

「本能寺の変」で反逆する以前、光秀は織田家の重臣にまで出世していました。重臣といえば、最高幹部のことですね。

その中でも特別な待遇で、仕事も他の家臣より重要なものでした。京都周辺の政治を任されていたり、朝廷とのパイプ役となったり。

武士としても信長の家臣ではトップクラスで、特に鉄砲の名人だったことで有名です。まさに百発百中だったとか。

そんな文武両道で何をやらせてもトップ。秀吉と並びで信長に気に入られていたそうですよ。

 




人物エピソード?

本能寺の変で「裏切り者」とまで言われた明智光秀。

その素の性格はどんな感じで、どのような人物だったのでしょうか。

ここでは、明智光秀の性格や人物像がわかるようなエピソードをカンタンに紹介していきます。

 

 

超一途だった

光秀は超一途ということで有名です。一人の女性だけを愛し、側室を持たなかったのです。

愛妻家伝説があります。正室のひろこが嫁に行く直前、病気で左の頬が、ただれてしまったのだそう。

そこでひろこの父は光秀に何も相談せず、ひろこそっくりの妹(双子説がある)を嫁がせようとしたのです。

しかし光秀はこれを見破り、「自分の妻はひろこに決めている」と言い、ひろこを取り戻したのです。

一途で愛妻家、かっこいいですね!

 

 

天海の正体は明智光秀?

天海といえば僧でありながら、あの徳川家康の右腕で、100歳以上生きた人物です。

明智光秀が、その天海だという説があります。

 

光秀は、「本能寺の変」で怒らせた秀吉に戦で敗れました。その敗走中に討たれて死んだというのが通説です。

これが、「実は生き延びて徳川家康に仕えたんじゃ?」というもの。

これは光秀と天海に、数多くの共通点、同一人物説ができあがるほど似ているところがあるのです。

結論をいうと、デタラメの可能性が高い感じです。都市伝説的なものなんですね。

 

例えば同一人物説ができる理由は、

  • 出生が近い。(光秀:1528年、天海:1536年
  • 三代将軍家光の名付け親が天海という説があり、家光の「光」は光秀の「光」
  • 家光の乳母で大奥を牛耳った春日局は光秀の姪

などなど。

 

「そんなに共通点があるならやっぱり光秀=天海なんじゃないの?」って事になりそうですが、ほどんどが完全にこじつけなのです。

それに天海は、出生や若い頃はほとんど謎なのです。同一人物のでっちあげにはちょうどよかったんですね。

ってかまず、光秀が天海だったらふつーに見た目で一発でバレるでしょう。当時は整形なんてないし、光秀はふつうに有名ですし。

口止めされていたとしても、こんなもの絶対に噂がまわります。「光秀が実は生きていて家康に仕えている」なんて超ビッグニュースです。

そのような記録が史料にまったくないというだけでも、やっぱり説はデタラメだということがわかるでしょう。

 

 

家紋が日光東照宮にある?

日光東照宮といえば、徳川家康を崇拝している神社ですね。

「なんで日光東照宮に明智光秀の家紋があるの?」とよく話題になっているんですね。

実は、これも「明智光秀=天海」説を盛りあげている要因です。

結論からいうとこれもデタラメ。デタラメというか、勘違いですね。

 

問題がこちらの家紋。脚に家紋がついていますよね。

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これが、明智光秀の家紋「桔梗紋」だと思われているのですが、実は違うようで。

これは織田信長の「織田木瓜」という家紋なんですね。

 

比較してみましょう。

画像・「桔梗」

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画像・「五つ木瓜(織田木瓜)」

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似ている。(・∀・)

 

確かに似ていますよね。「桔梗紋」に枠があれば激似です。

そして脚の家紋は「織田木瓜」だということがわかると思います。

 

 

現代に子孫、末裔はいる?

明智光秀の子孫について。偉人の子孫が現代でもいるのか、ロマンがありますよね!

明智光秀の子孫はこちらの方。画像・明智憲三郎さん

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歴史研究家をされているとのことで「本能寺の変」について書いた本も出版されています。なんか凄く説得力がありますよね。(・∀・)

実は明治まで、彼らは明田(あけた)と名乗っていたのだそう。これを先代が「明智」へ戻すため、伝承品をひっさげて政府に願い出たのだそうですよ。「明智」へ改名に成功していたのです。

 

まとめ

明智光秀の偉業やエピソードについて紹介しました。

正体や天海説や家紋の不思議など、都市伝説のようなものまでありました。

子孫や末裔についてもやっぱりロマンがあります。

信長を殺した張本人ということで、やっぱり一般人気はそれほど高くなく嫌いという人もいます。

それでもファンはいることから、やはりカリスマ性はあったのでしょう。戦国時代を語るには絶対に外せない人ですからね!

 

ということで、
明智光秀を5分で知る!天海だった説や家紋、子孫末裔はいる?でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
れきし上の人物.comの運営者。「かんたんにわかり易く」をモットーに、歴史が苦手な人向けに、記事を作成しています。難しい話は省いて、通説を元に書いていることをご理解の上、気軽に読んでください。m(__)m