北条泰時(ほうじょうやすとき)といえば、承久の乱で幕府軍を率いて後鳥羽上皇に勝利を治めその後、初代六波羅探題として活躍しました。
また「御成敗式目」を制定し、安定した政権を作り上げた鎌倉幕府の名執権です。
今回、北条泰時のかんたんな経歴、「御成敗式目」という法律について等、やった事を簡単にわかり易く紹介していきますよ。
北条泰時、プロフィール
名前:北条 泰時(ほうじょう やすとき)
出身地:相模国(現・神奈川県鎌倉市)
生誕:1183年
死没:1242年7月14日
享年:60歳(病死)
時代:平安時代末期から鎌倉時代前期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
1183年に、鎌倉幕府第2代執権の北条義時(ほうじょうよしとき)の長男として生まれました。
この時期は、あの源平合戦とも言われる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)の真っ只中でした。
祖父は初代執権の北条時政、あの「尼将軍」で知られる北条政子の甥にあたります。
動乱の中で生まれ育ち、血気盛んなイメージがありますが、物事を落ち着いて冷静な判断が出来る武士に育ちます。
この頃の鎌倉政権は、2代将軍・源頼家(よりいえ)が幽閉の後に暗殺され、続く3代将軍・源実朝(さねとも)も暗殺されるという不審な事件が続いていました。
そこで、権力を持ち政治を行っていた北条氏に不満の声が挙がります。
泰時が39歳になった1221年、後鳥羽上皇が政権を朝廷に取り戻そうと倒幕を目的にした「承久の乱」が起こりました。
泰時は、幕府軍のリーダーとして兵をまとめ上げ、父・義時と一緒に圧倒的な強さで、後鳥羽上皇率いる朝廷を倒し武家政権を維持させました。
その後は、武士が後鳥羽上皇を島流しにした事で、朝廷の力はみるみるうちに衰えると同時に鎌倉幕府の強さは全国に知れ渡りました。
「承久の乱」後は、初代六波羅探題として京都の治安維持に努めます。
父の義時が亡くなると、今度は鎌倉で第3代執権として環境を整備し、より良い政権を作り上げていきました。
その代表的なものが1232年に制定した「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」です。
これまでは、貴族を中心とした公家が作った法律で裁判等と行っていたために、武士中心の武家社会には合わなくなっていました。
死の前年に出家すると、泰時を追うようにおよそ50人もの家来が出家しました。
まさに泰時の人徳を表すエピソードです。
最期は赤痢によって高熱に苦しみながら60歳の生涯を終えました。
亡くなったのが6月であり、奇妙なことに父義時、伯母の政子と鎌倉政権の主要人物が同じ時期に亡くなっていること。
そして後鳥羽上皇を島流しにした時期と重なっていることから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りにではないかと言われています。
「御成敗式目」という法律はどんなもの?
泰時が作った「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」とはどんなものだったのでしょうか。
これまでにも法律はありましたが、それは公家や貴族が自分たちの目線で作った法律だったために、武士が世を動かす武家社会には様々な疑問の声が出ていたのです。
そこで、更なる盤石な武家政権確立のために1232年に「御成敗式目」を制定しました。
御成敗式目は全部で51条で出来ており、誰にでも受け入れやすいわかりやすい言葉で書かれているのがポイントです。
武士としてのマインドから仕事、土地の決まり事や裁判の基準となるあらゆるルールが盛り込まれた、武士の教科書のようなものでもあり、全国に配られました。
内容は、暴力や窃盗、放火などが起きたときの処罰の基準など、夫婦間の問題や相続問題のことなど、細かく書かれています。
まとめ
ということで、
北条泰時とは何した人?「御成敗式目」という法律はどんなもの?でした。
北条泰時をかんたんに語るポイントは、
- 鎌倉幕府第3代執権だった
- 承久の乱で、見事幕府軍を勝利に導いた
- 御成敗式目を作り武家社会初めての法律を作った
最後まで読んでいただきありがとうございます^^