室町時代

上杉景勝を5分で!家臣の前では笑わない?子孫は続いてる?

上杉景勝(うえすぎかげかつ)といえば、上杉謙信のあとを継いだ名将ですね。

上杉謙信ほどの知名度は無いものの、真田幸村に強い影響を与えた人物であるとされています。

今回、上杉景勝のかんたんな経歴家臣の前では笑わない逸話子孫が続いているかどうかを紹介していきますよ。

 

上杉景勝、プロフィール

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上杉景勝(うえすぎかげかつ)
出身地:越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県魚沼市)
生誕:1555年11月27日
死没:1623年3月20日
享年:69歳
時代:室町時代(戦国時代)-安土桃山時代‐江戸時代前期

 

何した人?どんな人?

上杉景勝は、上杉謙信のあとを継いだ名将です。

ニコリともしない無愛想な人物として史料にも記載されており、傾奇者として有名な前田慶次もしり込みさせてしまうほど、独特なオーラを放っていたと言われています。

ここでは、上杉景勝のかんたんな経歴を紹介していきます。

 

かんたんな経歴

杉景勝は、父・長尾正景(上杉謙信の重臣)と母・仙桃院(せんとういん・上杉景虎の実姉)の、次男として誕生しました。

景勝は次男で、兄がいたのですが、兄は10歳で亡くなってしまったため、景勝が後継者となりました。

 

1564年、父が38歳という若さで不可解な死を遂げたため、家を景勝が継ぐこととなりました。

ですが、このとき景勝はまだ9歳。

幼かったため、母の弟で、父がお世話になっていた景虎が引き取り養子として迎えました。

そのため上田長尾家は廃絶してしまいます。

 

妻子のいなかった景虎は、引き取った景勝を実の子のように可愛がりました。

そして、あの直江兼続と出会い、2人は景虎のもとで色々なことを学びました。

直江兼続といえば、大人気人物ですが伊達政宗とめっちゃ仲が悪いとも言われていますね。

こちらの記事で、直江兼続について、かんたんにわかり易く紹介しています。

>>>直江兼続を5分で!兜の「愛」の意味、子孫やお墓は?

 

で、1578年3月13日、上杉謙信はトイレで倒れ、49歳という若さで急死してしまいます。

謙信の死はあまりに突然のことだったため、後継者を指名していませんでした。

 

そして家督争いが起きます。

上杉家は2つに分かれ、上杉景虎(北条三郎)と、上杉景勝でケンカし、戦になりました。

結果、勝利した上杉景勝は、名実ともに上杉家の当主となったのです。

 

事当主となった景勝でしたが、その内乱によって上杉家は大きく疲弊していました。

そんなときに、織田信長やら、蘆名盛隆(あしな もりたか)やらに攻撃さて、上杉家は滅亡の危機となっていました。

しかし、明智光秀による「本能寺の変」によって侵攻してきた織田軍が「上杉どころじゃねえ!」と撤退し、上杉家は九死に一生を得たのです。

 

しかしこのままではまずいと思った景勝は、秀吉にググッと秀吉に急接近していくのです。

信長の後継者争いを勝ち抜いた羽柴秀吉は、景勝に自分に従うように求めると、景勝は承諾。秀吉の傘下に加わります。

上杉の活躍もあって秀吉は戦に勝ちまくります。

そして景勝は、上杉家を90万石まで発展させたのです。

 

1600年、「関ヶ原の戦い」では、西軍(石田三成軍)として力を尽くしました。

しかし東軍の勢いに押され、西軍は劣勢に追い込まれてしまい、降伏することとなります。

 

1601年、徳川家康は景勝に「謝罪をしろ」とせまりました。

景勝は、直江兼続と共に家康に謝罪をしたのです。

その結果、上杉家の存続は許されたのですが、30万石に減移封されてしまいました。

上杉景勝は米沢城(山形県)へと入城したのですが、多くの家臣を抱えているにも関わらず、誰ひとりクビを切らなかったため、家臣たちは貧しい生活に苦しんだそうです。

 

1604年、側室とのあいだに長男・玉丸(のちの上杉定勝)が誕生しました。

1623年1月1日、玉丸が将軍・徳川秀忠に謁見し、上杉定勝と名を改めると、同年3月20日に米沢城にて息を引き取ったのです。

 

それにしても、関ヶ原の戦いは直江兼続の「直江状」が発端だともいわれています。

直江兼続は、義を重んじた人物だけに超人気人物ですが、本当に破天荒だったのですね。

こちらの記事で、直江兼続について、かんたんにわかり易く紹介しています。

>>>直江兼続を5分で!兜の「愛」の意味、子孫やお墓は?

 




家臣の前では絶対に笑わない?

杉景勝は、家臣の前では絶対に笑わないという伝説をもっています。

彼が表情を崩した瞬間を、誰もみたことがないとのこと。

けして愛想の良い人物とは言えませんね。(・∀・)

あの傾奇者で有名な、前田慶次をも尻込みさせるほどだったといいます。

 

る宴会で、前田慶次が猿のお面を付けながら猿真似をしました。

慶次は大名たちの膝に乗るなどの暴挙に出ますが、誰も止められません。

ですが、景勝の席まで来たときは、そのおふざけを中断し、慶次も平静になったのだそうです。

 

すが、そんな彼にもたった1度だけ表情を崩した瞬間があると言われています。

それは、飼っていたお猿さんが景勝の膝の上にちょこんと座り、家臣に指示を出すかのような仕草をとったときです。

頷いたり、手を合わせたりと、景勝の真似をしたのだそう。

このときばかりは、いつも強張っている景勝の表情もゆるみ、にっこりとほほ笑んだと言います。

可愛がっていたお猿さんの愛らしい仕草に、景勝の凍り付いた心も溶かされてしまったのかもしれませんね。

 




子孫は続いてる?

杉景勝の子孫はつづいているのか。

これは、はっきりとはわかっていません。

もしかしたら現代にも残っているかも?というくらいです。

 

杉景勝は、側室とのあいだに長男・玉丸を授かっています。

玉丸は、のちに名を「上杉定勝(うえすぎさだかつ)」と改めると、上杉を継ぎ、上杉家を幕末まで続けさせたと言われています。

子孫に関することは現在明らかにされておりません。

でも、幕末まで続くくらいですから、そのへんで血筋が絶えたりするでしょうか。

上杉家の子孫は、現代までつづいていても全然不思議ではないですよ。

 

 

まとめ

上杉景勝を5分で!家臣の前では笑わない?子孫は続いてる?でした。

上杉景勝について、かんたんに語るポイントは、

・9歳の頃に上杉謙信に引き取られ、直江兼続と共に様々なことを学んだこと

・御館の乱にて義兄・上杉景虎と争い、家督を継いだこと

・真田昌幸より真田信繁を預かったこと

・生涯で1度だけ家臣の前で笑ったことがある

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
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