細川忠興(ほそかわただおき)と聞いてもピンと来ない人が多いかもしれません。
彼は、明智光秀の娘である細川ガラシャと結婚し、時代の有力者に仕えた「出来る男」なのです。
今回、細川忠興のかんたんな経歴、性格がヤンデレな逸話、妻のガラシャを見殺しにした?について紹介していきますよ。
細川忠興、プロフィール
細川忠興(ほそかわ ただおき)
出身地 京都
生誕 1563年11月28日
死没 1646年1月18日
享年 83歳
時代 室町時代(戦国時代)-安土桃山時代-江戸時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
細川忠興のかんたんな経歴を紹介します。
室町時代の終わりに織田信長と足利義昭が対立した時に信長に付き従い、そのまま明智光秀と一緒に信貴山城の戦いや、一色義道(いっしき よしみち)を滅ぼすなどの活躍をしました。
明智光秀の三女である玉子(ガラシャ)と結婚するほど明智光秀と仲が良かったのですが、本能寺の変では明智光秀からの味方要請を断りました。
豊臣政権下では、七将に数えられるなどさまざまな戦いで武勲を挙げました。
秀吉が死去すると徳川家康の元につき、関ヶ原の戦いでは東軍として他の大名に大きな影響を与えました。
関ヶ原の戦いでは、首級を136上げるなど激闘を演じました。
癪(しゃく・内臓疾患)を患っていましたが、大坂夏の陣に参戦するなど戦が大好きな人なのです。
ちなみに何かあるとすぐ家臣を手打ちにするくらい、短気な戦国の瞬間湯沸かし器のような男です。
性格がヤンデレの逸話って?
ヤンデレとは、「病んでいる」と「デレる」が合わさった言葉であり好きすぎて閉じ込めたいみたいな常軌を逸している愛情表現をすることです。
細川忠興は、妻であるガラシャにヤンデレのような態度をとっていたといわれています。
例えば、ガラシャの父親(明智光秀)が本能寺の変を企てた時には、妻を愛しているが故、離縁せずに幽閉し(閉じ込めて!)それからも四六時中ガラシャと一緒に過ごしていました。
美しいと評判のガラシャにちょっと見とれていた庭師を手打ちにしたり、自分が戦をしていてそばにいることが出来ないときには「他の人に目移りしないように」とわざわざ手紙を送ったりするほどでした。
しかし自分はガラシャ以外にも側室をたくさん増やし、ガラシャを悩ませていたというから、なんだかなあ~といった感じです。
細川ガラシャといえば、「戦国一の美人」ともいわれていますから、忠興が心配するのも、まあなんとなくわかりますね。
こちらの記事で、妻・細川ガラシャについて、かんたんにわかり易く紹介しています。
>>>細川ガラシャを5分で!容姿の絵や子孫、辞世の句の意味は?
妻のガラシャを見殺しにした?
細川忠興が、妻であるガラシャを見殺しにした説。
彼は、ガラシャを病むくらい愛していました。
愛しているガラシャが他の人のものになることは耐えられないことでした。
戦に出るときは「妻が他の人のものになりそうなときは妻を殺せ」と家臣に命じてしまうほどのヤンデレっぷり。
石田三成がガラシャを人質に取ろうとした時には、ガラシャ自身が人質になることを拒み、家臣に自分を殺させるのです。
細川忠興はガラシャを見殺しにしたわけではなく妻の名誉を(強引に)守ったのです。
その後は妻の宗教に基づいて教会葬をしてあげたり、護衛を頼んでいたのに妻を見捨て逃げ出した家臣を追走したりしました。
細川忠興はガラシャをとても、異常に愛していたのです。
まとめ
戦国一短気で家臣を手打ちしまくる戦狂な細川忠興ですが、主君を裏切ろうとする義父に協力しなかったり、秀吉を怒らせてしまい追放される自分の師匠である千利休の見送りをしたりなど仁義の通った男だったのです。
愛情表現が少しおかしいだけで妻ガラシャも愛していました。
細川家の繁栄に尽力した他人にも身内にも厳しい男は、まさか現世でヤンデレと言われるなどと思ってもいなかったでしょう。
ということで、
細川忠興を5分で!性格ヤンデレの逸話や妻のガラシャを見殺しに?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^