楠瀬喜多(くすのせきた)さんといえば、「民権ばあさん」と言われる婦人運動家です。
女性であるということだけで選挙権がないのはおかしいと訴え続けました。
婦人運動家といえば、平塚らいてうが一般的にはとても有名ですが、楠瀬喜多はそれより30年以上も早くに活動をしていた人です。
今回、楠瀬喜多のかんたんな経歴を紹介していきますよ。
かんたんな経歴
1836年、彼女は土佐藩(高知県)で、長女として生まれました。
21歳のころ、剣術指南役の楠瀬実と結婚します。
しかし、17年後の38歳で死別。楠瀬喜多は独り身となります。
ふたりの間には子どもはいませんでしたので、彼女が戸主となりました。
戸主ならばもちろん納税します。
しかし、納税はしているのに、高知県区会議員選挙では、女性だからという理由で投票させてもらえませんでした。
当時の選挙資格は、満20歳以上の男性であることが第一条件だったのです。
これに納得がいかない彼女は、税金をわざと滞納します。
投票しちゃダメなら税金も納めません。というスタイルでいったのです。
すると、高知県から督促状が届きます。
彼女は「納税しているのに、女だからという理由で投票できないのはおかしい。権利と義務は両立するはず。投票できないなら税金も納めない。」とする抗議文を書き、これを高知県庁へ提出しました。
これを高知県側は、認めないとすると、彼女は内務省に意見書をだしました。
これによりついに、2年後には楠瀬喜多の住む地域では、女性も投票できるようになりました。
実はこの当時、女性が投票できる地域というのは、世界でもほとんどなく、わかっている範囲だけではアメリカのワイオミング州議会だけでした。
つまり世界で2番目に、女性参政権を認めた地域ということになり、まさに革命だったのです。
しかし4年後に、また男性しか投票できないように政府が改正してしまいます。
このとき、50歳になろうとしていましたが、ここから約35年もの間、彼女は婦人運動家として奔走しました。
自由民権運動では自ら壇上に立って演説したり、四国をまわり遊説したり、若い民権活動家との交流も持ち続けたりするなど、まさに「政治家」でした。
彼女は最期まで、政治に関わりますが、1920年、大正デモクラシーといわれる激動の時期に亡くなりました。84歳でした。
その後、彼女が実現させたものの一瞬で終わってしまった女性参政権は、60年以上かけてようやく、日本で認められることになりました。
婦人運動家というと、一般的には特に有名なのが平塚らいてうです。
日本初の婦人運動団体として「新婦人協会」を設立したり、女性のためだけの雑誌を出版したりした人です。
彼女も当時の性差別と戦ったかなり強い人ですが、日本で元祖という点では楠瀬喜多です。
平塚らいてうも、楠瀬喜多の影響を少なからず受けていると考えてもよいですね。
まとめ
ということで、
楠瀬喜多生誕 183 周年「民権ばあさん」と言われた婦人運動家!でした。
・「民権ばあさん」と言われた凄い婦人運動家!
・一時的ではあったが、女性に選挙権をもたせるという革命をおこした!
最後まで読んでいただきありがとうございます^^