原敬(はらたかし)といえば、政治家ですね。
明治政府の役人として、毎日新聞社の社長として、そして藩閥内閣から日本初の政党内閣を作り、平民からは初の総理大臣として活躍したすごい人です。
今回、原敬のかんたんな経歴、暗殺された理由や犯人は?について、紹介していきますよ。
原敬、プロフィール
名前:原敬(はらたかし)
出身地:陸奥国(現・岩手県)
生誕:1856年3月15日
死没:1921年11月4日
享年:65歳(暗殺)
時代:江戸時代-明治時代-大正時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
原敬(はらたかし)は、盛岡藩士の父・原直治(はらなおはる)の次男です。
原家は盛岡藩の家老を務めるエリート一家でしたが、敬が9歳の時に父が亡くなると、苦しい生活を送ることになります。
続いて、1868年に起こった戊辰戦争(薩長率いる新政府軍VS徳川慶喜率いる旧幕府軍)で、盛岡藩は旧幕府軍として戦い、敗れます。
元家老の家に生まれたという高いプライドを持ちながらも、天皇への反逆者というレッテルを貼られ、心苦しい幼少時代を過ごしました。
藩校に入り、がんばって勉強に取り組みますが、学費を払い続けることが出来ず、退学します。
15歳で上京し、学費の掛からないカトリック神学校で、フランス語をはじめとする様々な教養を身に付けました。
またこの頃、実家の原家から分家し、平民となっています。
平民とは、当時の身分階級の一つです。大名や公家は華族、上級武士は士族、下級武士は卒族となり、それ以外の一般市民は皆平民となりました。
20歳、学んだフランス語を生かすために、東大法学部の前身の一つである「司法省法学校」の2期生として、優秀な成績で入学します。
明治政府がエリート司法官(裁判官)を育成するため作ったこの学校は、学費はゼロで住む寮と食事が付いて、さらにお小遣いまで支給されるVIP待遇でした。
しかし、寮の食事トラブルに巻き込まれ退学処分となります。
実は、戊辰戦争でライバルだった薩摩出身の校長に目を付けられ退学させられたのです。
1879年、23歳ころは、郵便報知新聞社(現・報知新聞)や大東日報の記者として活躍しました。
その活躍ぶりは、明治政府の役人の目に止まり、外務省で働くことになります。
外務省の役人として、清(中国)やフランスなどに駐在し、そこでも大活躍するのでした。
時の外務大臣は、カミソリ大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)でした。
薩長出身メンバーが中心となっていた藩閥政治に嫌気を感じていた陸奥のフォローによって、敬は39歳のときに外務次官となりました。
その圧倒的な存在感は、政界から大注目されるほどでした。
が、陸奥が病気で政界を去ると、大隈重信(おおくましげのぶ)が外務大臣に就きました。
大隈に強い苦手意識をもつ敬は、陸奥の後を追うように政界を去ったのです。
1897年、外務省を辞めた敬は41歳くらいで、大阪毎日新聞社へ編集責任者として入社し、翌年には社長になるほどにバリバリ働きました。
敬の記事は、新聞の読者を3倍に増やすほどの人気でした。
そしてその頃、伊藤博文(いとうひろぶみ)が「立憲政友会」を立ち上げ、日本でも議会政治がスタートしていました。
議会政治は、これまでの薩長出身メンバーが行う藩閥政治とは違い、より民主的で近代的な政治が行われていて、それはまさに敬の憧れでした。
44歳、伊藤博文のオファーを受けた敬は、新聞社を辞めて、立憲政友会の中心メンバーとして郵政大臣を務め、本格的に政治家として人生を歩みはじめました。
藩閥政治を誰よりも拒否し続け、民主的で議会を中心とした政党政治を目指し活躍します。
46歳、1902年に衆議院議員に当選すると、その後は西園寺(さいおんじ)内閣の内務大臣に就任します。
積極的に地方に行き、立憲政友会のPRにも力を注ぎました。
58歳、1914年、西園寺の後任として立憲政友会の総裁になります。
ちょうどそのころ、「第1次世界大戦」が勃発し、日本の都市部は近代工業化の加速によってバブル景気を迎えていました。
しかし農村部では農業人口の減少により米の流通量が減ってしまっていたのです。
日本各地で米の価格が大幅に上昇したことで米騒動が起き、当時の寺内内閣を辞職に追い込むほどでした。
1918年、62歳の敬は、政友会総裁として内閣総理大臣に就任します。
公家でも薩長出身でもなく、平民初の首相として政界トップの座に就き、大きく国民の期待が寄せられました。
また内閣を構成しサポートするメンバーも政友会を中心に選んだことから、本格的な政党内閣をスタートさせたのです。
敬は、鉄道や道路を中心としたインフラ整備や高等教育機関の整備、そして外交にも力を入れ、経済力の高い日本国家を目指しました。
しかし、総理就任から3年の1921年11月、敬に不満を持つ青年に刺され、65歳で亡くなりました。
暗殺された理由、犯人、場所は?
原敬が暗殺された理由や犯人、場所について。
これは、犯人は一般人で鉄道マンの中岡艮一(なかおかこんいち)。
場所は、東京駅。
理由は、原敬の政治の不満。
だとのこと。
ちょっとみてみましょう。
平民初として国民の大きな期待をバックボーンに第19代内閣総理大臣となった原敬は、その大き過ぎた期待と信頼が仇となり、1921年の11月4日に東京駅で暗殺されました。
犯人は、山手線の大塚駅に勤務する鉄道マン・中岡艮一(なかおかこんいち)です。
敬は、京都で行われる立憲政友会の支部大会に向かうために東京駅へ向かった所、中岡に待ち伏せされ短刀で胸を刺されました。
暗殺の理由は、敬の政治に対する不満からだといいます。
止まらない物価の上昇や普通選挙法へのネガティブな姿勢、社会主義運動の批判が原因でした。
暗殺された場所の東京駅丸の内南口には、敬を偲び事件を繰り返す事が無いように、今でもプレートが残っています。
まとめ
ということで、
原敬ってどんな人物?暗殺された理由や犯人など簡単にわかり易く説明でした。
原敬をかんたんに語るポイントは、
- 藩閥政治から政党政治へと変えた
- 平民初の首相となり、国民から大きな期待が寄せられた
- 国民の大きな期待に応えられずに最期は暗殺された
最後まで読んでいただきありがとうございます^^
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