陸奥宗光(むつむねみつ)といえば、幕末に結ばれた不平等条約を改正し、日本の外交の基礎を築き上げた政治家です。
頭のキレが良く「カミソリ大臣」なんて呼ばれたりしていました。
今回、陸奥宗光のかんたんな経歴、超美人な夫人・亮子との子孫は?について、紹介していきますよ。
陸奥宗光、プロフィール
名前:陸奥宗光(むつむねみつ)
出身地:紀伊国(現・和歌山県)
生誕:1844年8月20日
死没:1897年8月24日
享年:54歳(肺結核)
時代:江戸時代~明治時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
1844年、陸奥宗光(むつむねみつ)は、紀州藩の勘定奉行を務める父・伊達宗広と母・政子の6男として生まれました。
宗光の生まれた家は、東北地方を拠点に繁栄した陸奥伊達家の分家・駿河伊達家の子孫で、伊達陽之助(だて ようのすけ)とも名乗りました。
8歳のときに、父・宗広が紀州藩のトラブルに巻き込まれ、家族バラバラの生活を送ります。
1858年、江戸へ出て、儒学者の安井息軒(やすいそっけん)の元で勉学に励みながら、尊王攘夷運動へ参加しました。
しかし、吉原に通い女性とばかり遊んでいることが安井にバレて追い出されます。
その後は、法学者の水本成美(みずもとなるみ)の元で学び、そこで伊藤博文や木戸孝允、そして坂本龍馬たちとの運命的な出会いを果たしたのです。
1863年、勝海舟リーダーの神戸海軍操練所へ龍馬と共に入り、親交を深め海外情勢を学びました。
日本近代化のために、開国の重要性を感じた宗光は、その4年後に龍馬の作った海援隊に入ります。
貿易で収入を得ながら、政治や航海術まで、いろんなことを学びました。
武力に頼らず知識とアイディアに優れた宗光を、龍馬は「刀を2本差さぬとも食っていけるのは俺と陸奥だけぜよ」と大絶賛したのです。
かっこいいですね。(・∀・)
1868年、岩倉具視の指名により、25歳の若さで明治政府の役人となりました。
外国事務局御用係、兵庫県知事、神奈川県知事そして税制改革を行った地租改正局長を歴任します。
しかし、1872年には薩摩藩と長州藩のメンバーが中心だった明治新政府に居心地の悪さを感じ、政界から身を引き、地元の和歌山へと帰りました。
そしてこの頃、妻の蓮子を亡くし、亮子と再婚します。
1875年、再び明治政府の役人となり政界で戻ってきましたが、1877年の西南戦争の際に土佐の反政府運動に関与したことで、5年の禁固刑を受けました。
刑務所では、イギリスの哲学者ベンサムの著書を翻訳するなど、挫折の身でも猛勉強に取り組みました。
妻・亮子への手紙も頻繁に送り家族への愛も忘れませんでした。
この頃、宗光のカミソリのように切れる頭脳や才能にいち早く気付いていた伊藤博文は、岩倉具視らと宗光の釈放へ向けて政府へ働きかけていたのです。
1883年、特赦(特別な減刑)により釈放されると、伊藤博文の薦めもあり、すぐにロンドンへと留学します。
ロンドンでは、議会や内閣の仕組みを学び、日本を世界レベルへリードするために勉強しました。
1886年、帰国後した宗光は、さっそく外交官としてメキシコとの不平等条約の改正に取り組み、日本初の平等条約となった日墨修好通商条約の締結に成功したのです。
その後、第1次山縣内閣の農商務大臣となり、1892年には第2次伊藤内閣の外務大臣として就任すると、不平等条約の改正へ向けて大きく動き出します。
イギリスとの治外法権(外国人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けない)撤廃に成功すると、同じくアメリカやドイツなど15か国との間で結ばれていた不平等条約を次々と改正しました。
宗光の政治手腕は、カミソリ大臣やカミソリ外交とも称されています。
1895年、日清(中国)戦争で勝利した日本は、下関条約を結び、有利に戦争を片付けました。
その翌年、長年患っていた肺結核の悪化により政界を引退します。
療養生活を送りますが、病状は回復せずに1897年に肺結核によりこの世を去りました。
美人な夫人・亮子はどんな人?
再婚相手の亮子夫人はとても美人だったといいます。
>>>歴史上のガチ美人な女たちまとめ2-陸奥亮子(むつりょうこ)
1872年2月、陸奥宗光は妻・蓮子を亡くし、5月に東京新橋の芸妓だった亮子と結婚しました。
前妻の遺した二人の男子と、宗光との間に授かった長女を立派に育て、宗光が投獄されている間もロンドン留学中も、ずっと陸奥を待ち続けました。
陸奥から届く手紙には、亮子への気遣いはもちろんですが、亮子自身の教養を高めるように様々な指示が書かれていました。
と、いうのも宗光はいずれ政界で活躍する事を心に誓っていたのです。
その際、政治家の妻として、引けを取らないような知識と教養を身に付けさせたのでした。
亮子は宗光の望み通りの妻となるように、日本の歴史や語学など教養を高めます。
そして、宗光の政界復帰とともに社交界へデビューした亮子の美しさは、鹿鳴館の華と言われるほど、周囲を圧倒させました。
宗光が外務大臣となり夫婦で渡米した際も、美しさだけではなくドレスの着こなしやマナー、そして語学力を披露し、日本が優れた文明を持つ国であることをアピールしたのです。
亮子は地元の新聞でも「ワシントン社交界の華」と称されました。
宗光の不平等条約改正の陰には、妻・亮子の努力があったのです。
宗光もかっこいいけど、夫人もかっこいいですね。
子孫は続いてる?
宗光の子孫は続いてるのでしょうか。
宗光の子供は、
・外交官となった長男・広吉
・川財閥の創業者の養子となった次男・潤吉
・後妻・亮子との間に長女・清子
・祇園の芸者との間に次女・冬子
が、いました。
長男の広吉以外は、残念な事に若くして未婚のままに亡くなっています。
長男・広吉には、イギリス人妻・イソとの間に生まれた、宗光の孫・陸奥イアン陽之助がいます。
陸奥イアン陽之助は、インタナショナル映画社の創業者であり、2002年までご存命でした。
イアン陽之助さんは、ご結婚していたようですが、子供がいたかどうかは公開していないのでわからない状況です。
もしかしたら宗光のカミソリ頭脳を引き継いだ子孫がいるかも知れませんね。
まとめ
陸奥宗光の大きな功績は、外務大臣として治外法権撤廃という不平等条約改正でした。
投獄されても勉学に励み、日本の将来を見据えた先見性にも優れていました。
宗光の政治手腕があったからこそ、日本外交の基礎が出来上がったのです。
そして、その陰には宗光を懸命に支えた妻・亮子の並外れた努力がありました。
ということで、
陸奥宗光とはどんな人物?何した人なのか簡単にわかり易く説明でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^