沖田総司(おきたそうじ)といえば、アイドル並の人気を誇り、向かうところ敵なしと言われた剣術の超達人です。
幕末に新選組として活躍しました。
今回、沖田総司のかんたんな経歴、新撰組での偉業や性格、辞世の句の意味は?について、紹介していきますよ。
沖田総司、プロフィール
名前:沖田 総司(おきた そうじ)
出身地:江戸 白河藩屋敷(現・東京都港区西麻布)
生誕:1842年(または1844年)
死没:1868年7月19日
享年:27歳(肺結核)
時代:江戸時代~明治時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
沖田総司(おきたそうじ)は、江戸の白河藩屋敷(現在の東京都港区)で、白河藩士の父・沖田勝次郎の子として生まれました。
詳しい生年は不明で、1842年か1844年の夏に生まれたとされています。
幼くして父と母を亡くし、その後姉のミツが婿養子を迎えて沖田家を継いでいます。
1850年、総司は親戚の新撰組六番隊組長・井上源三郎から剣術の素質を認められ、天然理心流の「試衛館」に入門し、近藤周助の弟子となりました。
後に、一緒に新撰組として活動する、近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)も同じく「試衛館」に弟子入りしていました。
1860年、入門から10年経った総司の並外れた剣術の腕前から、試衛館のトップとなります。
その剣術の腕前は、沖田と対戦すると誰もが子供同然に扱われる程でした。
1863年に、新撰組が結成されると凄腕の剣術が高く評価され一番隊組長というポジションで活躍します。
新撰組は、京都へ向かう徳川14代将軍の家茂の警備も任されました。
新撰組の名は、至るところに知れ渡り、総司の人気はアイドル並だったとも伝わっています。
翌年7月の、京都池田屋事件では真っ先に突入し、倒幕派メンバーを斬りました。
が、この頃から結核を患い、第一線での活躍はできず療養生活を送ります。
そして治療の甲斐なくして、27歳という若さで亡くなりました。
性格がわかるような人物エピソードは?
沖田総司の人物像がわかるようなエピソードについて。
凄腕の剣術として知られる沖田総司ですが、その人物像は情にとらわれずに黙々と任務を遂行するタイプだと語られています。
特に、剣術の師匠でもある新撰組局長・近藤勇へ、高い尊敬心を持ち続けました。
将来の日本を良くしよう!などの政治的ポリシーは無く、ただひたすら近藤勇のために剣を振ったのです。
そして、兄にように慕っていた山南 敬助(やまなみ けいすけ)が脱走し、切腹した際に、これまでの親しみがまるでなかったように淡々と介錯(即死させること)しました。
一方で、陽気で明るく愛想の良い好青年としても語られ、大人になっても近所の子どもたちと仲良く遊びました。
新選組としての仕事以外では親しみやすい人物であったことが伺えますね。
辞世の句の意味は?
沖田総司の辞世の句の意味について紹介してみます。
結核で闘病中の沖田の元へ、鬼の副長・土方歳三がお見舞いにきてくれました。
土方は、沖田に向かい合い、
「さしむかう 心は清き 水鏡」
(その清き心は、水鏡に写したように同じ志しを持っている)
と詠み、これから五稜郭(北海道にある城)へ向かう決意を語ったと言われています。
これに答えた歌が、総司の「辞世の句」となりました。
その辞世の句は、
「動かねば闇にへだつや花と水」
です。
これは花を総司自身に、水を土方に例えて詠まれています。
意味は、「戦えないならば、私と土方副長は遠く隔たってしまう」で、病気で新選組としての活動が出来ない自分に悔しさと寂しさ、そして悲しみを詠んだとされています。
その後、土方は五稜郭へ向かいますが、土方の死を知らぬまま沖田も息を引き取りました。
まとめ
5分で沖田総司について!新撰組での偉業や性格、辞世の句の意味は?でした。
沖田総司をかんたんに語るポイントは、
・凄腕の剣術を誇り新選組一番隊組長として活躍した
・政治的ポリシーはまったくなかった
・子どもと遊ぶ無邪気さを持っていた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^