幕末

大久保利通とはどんな人物?なぜ暗殺された?西郷隆盛や木戸孝允との関係は?

大久保利通(おおくぼとしみち)といえば、明治維新の中心的な人物で、ヒゲがとても印象的です。

幕末から明治の激動を最先端で迎え、日本を近代国家へと導いてくれました。

今回、大久保利通のかんたんな経歴なぜ暗殺されたの?について西郷隆盛や木戸孝允との関係は?について、紹介していきますよ。

 

大久保利通、プロフィール

名前:大久保 利通(おおくぼ としみち)
幼名:正助(しょうすけ)
出身地: 薩摩国(現・鹿児島県)
生誕:1830年9月26日
死没:1878年5月14日(満47歳没)
享年:49歳(斬殺)
時代:江戸時代から明治時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

久保利通(おおくぼとしみち)の生涯を簡単に紹介してみます。

1830年に薩摩藩(現・鹿児島県)の武士の家に、長男として生まれました。

父は大久保利世(おおくぼとしよ)、母は福(ふく)です。

 

幼い頃よりちょっと体が弱く、どちらかと言えばスポーツは苦手で、読書や勉強を好んでいました。

のちに倒幕から明治維新まで活躍する西郷隆盛(さいごうたかもり)とは、幼馴染みの関係で、いっしょに時間をすごした大切な友人でした。

 

通が20歳の頃、父が薩摩藩主の後継者トラブルに巻き込まれ、父は島流しに、利通も謹慎の身となりました。

薩摩藩主が島津斉彬(しまづなりあきら)になると、利通親子の謹慎は無事に解かれます。

斉彬の死後は、新藩主の島津久光(しまづひさみつ)の側近として活躍します。

公武合体策(朝廷と幕府による政治)派の薩摩藩をリードし、倒幕に向けて表舞台でどんどん実力を発揮し始めました。

 

1866年3月に、薩長同盟が成立し、倒幕ムードが高まるなか、1867年11月に徳川慶喜(とくがわよしのぶ)「大政奉還」を行います。

大政奉還とは、武士が持っていた政権を天皇にお返しするという意味です。

しかし、大政奉還後も政治に関わる徳川慶喜がいる限り、徳川幕府が政権を握っているのと変わらなかったのです。

 

そこで、1868年1月利通と岩倉具視(いわくらともみ)らは「王政復古の大号令」を発し、天皇のもとに明治新政府を作りました。

慶喜が大政奉還を行い、政権はすでに天皇が持っていることを理由に、王政復古の正当性を世に知らしめることとなります。

ここでようやっと、徳川政権は終わりを迎えたのでした。

 

通は、明治新政府で参議(政府の役人)として、「版籍奉還」「廃藩置県」を行います。

「版籍奉還」は、藩主の土地(版)と人民(籍)を朝廷に返しました。

「廃藩置県」は、江戸時代より続いていた藩を廃止して府と県にしました。

どちらも天皇を中心とした中央集権を確立するために行われました。

 

1871年、大蔵卿(おおくらきょう:現代の財務省長官)となり、新しい税金の仕組みである「地租改正」を行います。

1871年から1873年に、岩倉使節団の一員としてアメリカとヨーロッパの外遊に出ます。

帰国後は内務卿(実質的な首相)として就任し、欧米諸国に負けない国を目指し、富国強兵を掲げました。

またヨーロッパやアメリカで見たものを、すぐに私生活にも取り入れたのです。

洋服を着て、朝食はコーヒーを飲みオートミールを食べました。

 

してその頃、幼馴染で友人の西郷隆盛が「征韓論(武力で朝鮮を開国させようとすること)」を進めていましたが、それをめぐり、西郷隆盛と利通の意見が対立します。

そして明治政府に対する最大の内乱である「西南戦争」が起こりました。

 

1878年、新政府側として西郷を死に追いやった利通は、征韓論派の士族(旧武士)によって暗殺され、47歳の人生に幕を閉じました。

利通の胸には、生前の西郷から貰った手紙を持っていたとされています。

意見は対立してしまいましたが、幼い頃から語り尽くした、日本の将来あるべき国は同じだったのかも知れません。




なぜ暗殺されたの?

通の死因は暗殺によるものですが、なぜ暗殺されたのでしょうか。

発端は、友人・西郷隆盛との対立でした。

 

共に倒幕を実現させ、新国家を目指してきた利通と西郷ですが、最後は「征韓論」をめぐって意見が対立しました。

「征韓論」とは、武力を使って朝鮮(現・北朝鮮と韓国)を開国しようとしたことでした。

西郷は、軍事力主体で新しい国作りを考えたのに対し、利通は、国内の財政基盤を早期に整えようとしました。

西郷の征韓論に反対したのです。

 

すると西郷は明治新政府に不満を持つ士族(元武士)らと、新政府に対する、「西南戦争」を引き起こします。

その「西南戦争」での新政府軍のリーダーの一人が利通でした。

西郷隆盛は利通率いる新政府軍に追い詰められ、命を落としました。

で、利通の暗殺は、おそらくその恨みでしょう。

利通は、西郷の征韓論に賛同していた石川県士族の島田一郎ら6名により惨殺されました。

西郷派からしてみれば、西郷隆盛を殺したのは、新政府軍のリーダーだった大久保利通なのです。

この暗殺を、「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」と呼びます。

 




西郷隆盛、木戸孝允とはどんな関係?

久保利通は、西郷隆盛や木戸孝允とはどんな関係だったのでしょうか。

まず、薩摩藩(鹿児島県)の代表が西郷隆盛長州藩(山口県)の代表が木戸孝允でした。

つまり、近代国家を目指した明治維新の中心的な存在が、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允の3人なのです。

 

維新の三傑(いしんのさんけつ)と呼ばれ、日本の近代化に力を注ぎました。

利通は、2人と共に倒幕を実現させ、天皇を中心とした中央集権国家への仕組みを作り、軍事産業や財政基盤の確立を成し遂げていきました。

明治新政府で、利通は財政基盤を作り、西郷は軍事力を高め、木戸は全体の政治の仕組みを作ったと言われています。

利通は、公共事業の予算が足りなくなると、自分のお金を使うほどで、死後は借金が残りました。

しかし、利通の政策を理解する債権者も多く取り立ては行われませんでした。

この3人を抜きに明治維新を語ることはできないのですね。

 

まとめ

大久保利通とはどんな人物?なぜ暗殺された?西郷隆盛や木戸孝允との関係は?でした。

 

大久保利通をかんたんに語るポイントは、

・勉強と読書は大好きだけど、スポーツは苦手だった

・倒幕から明治維新の激動の中で活躍した

・現在の日本の政治基盤を作った

・いち早く洋風文化を取り入れ、文明開化を味わった

・大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允は、維新の三傑だった

・征韓論に反対し、生涯の友・西郷隆盛と対立、結果暗殺された

 

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りょーま(管理人)
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