出雲の阿国(いずものおくに)と言えば、日本の伝統芸能の一つである歌舞伎の祖と言われる人物です。
京都の四条河原を舞台に演じたかぶき踊りが始まりです。
今回、出雲の阿国のかんたんな経歴、歌舞伎をつくった女性?、日本一のかぶき者?について、紹介していきますよ。
出雲の阿国、プロフィール
名前:出雲の阿国(いずもの おくに)
出身地:出雲国(現・島根県)
生誕:1572年
死没:不明
享年:不明
時代:安土桃山時代から江戸時代初期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
出雲の阿国(いずものおくに)は、1572年に鍛冶屋を営む中村三右衛門の娘として、出雲国(現・島根県)に生まれました。
毎年10月になると全国の神様が集まることで知られている出雲大社の巫女(みこ・神に仕える女性)となります。
その後、出雲大社の修繕費用など寄付してもらうことを目的に、各地を踊りながら興行巡業しました。
この興行巡業とは、今でいうコンサートやショービジネスと言った感じが当てはまります。
1582年に奈良の春日大社で「加賀8歳と国11歳の童がややこ踊りをした」という記録が残っている事から阿国が1572年生まれの説があります。
京都の北野天満宮境内で興行すると、人々は阿国たち一行を大変気に入り、たちまち大評判となりました。
秀吉の伏見城や公家である近衛家、そして皇室の女性が住む御所でも踊りを披露しました。
その後、興行の過程で「ややこ踊り」の内容が変化し、「かぶき踊り」となり全国に広まります。
阿国の「かぶき踊り」は、江戸で披露したのが最後となりました。
江戸幕府は風紀や治安の乱れを恐れ、女性芸能者が舞台に立つことを禁じたためです。
阿国は故郷の出雲に戻り出家しました。
出雲大社の近くには、阿国のものと伝わるお墓があります。
出雲の阿国が歌舞伎をつくった?
歌舞伎をつくったのは、出雲の阿国です。
出雲の阿国が最初に踊っていた「ややこ踊り」が「かぶき踊り」となり、日本伝統芸能の一つである「歌舞伎」になりました。
ややこ踊りとは、可愛らしい幼子のような踊りでしたが、各地を興行していく上で、世の人々が求めている踊りに変わっていきます。
女の阿国が武士に男装して、遊女のような茶屋の娘と戯れる様子を演じたものが「かぶき踊り」でした。
この「かぶき踊り」は、すぐに遊女屋にも取り入れられ世の男性の人気となります。
女性だけで演じられた「かぶき踊り」は「女歌舞伎」と言われ、セクシーかつ大胆で過激なことから風紀が乱れるために、女性が舞台に立つことを幕府が禁じたのです。
「女歌舞伎」が禁じられると、次は若い美少年が演じた「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」が演じられますが、これも同じように風紀が乱れるとされ禁止されました。
しかし、既に「歌舞伎」の面白さを知ってしまった庶民は「歌舞伎」の復活を望みます。
そこで風紀を乱さない男性が演じる「野郎歌舞伎」が演じられるようになります。
これが、現代にも通じる歌舞伎の姿であり、「野郎歌舞伎」の流れから男性のみが演じられる伝統芸能となりました。
日本一の傾奇者って?
傾奇者とは、戦国時代末期から江戸時代初期に流行したトレンドで、それまでの常識から外れたド派手な身なりをする人を言いました。
傾く(かぶく)とは、頭を傾けるという意味があり、周囲を驚かせるような変わった様子を表します。
漫画「花の慶次」のイメージが強いかもしれませんね。
出雲の阿国も女性であるにも関わらず、武士の男性に姿を変えたことから「傾奇者」と呼ばれました。
傾くから「傾奇」へ、歌い舞う芸妓から「歌舞妓」となり、そしてお面をかぶり音楽に合わせて踊る伎楽(ぎがく)の伎から「歌舞伎」と表記が変わりました。
歴史上で有名な傾奇者は、奇抜で派手な衣装の伊達政宗や前田慶次が挙げられますが、女性でありながら刀を振りかざし武士を装った阿国が、1番の傾奇者と言えそうです。
ちなみに、阿国が小屋を建て「かぶき踊り」を披露した場所と伝わる京都の四条通に、出雲の阿国像があります。
堂々と刀を持った存在感のあるその姿は、現代でも魅力的です。
まとめ
阿国の生涯は、不明な点が多く謎とされながらも、しっかりと世の人気を集めその名を歴史に刻んだ粋な人生でしたね。
現在の歌舞伎の元をつくり、女性でありながら男を演じる立派な傾奇者だったのでした。
ということで、
れきし!出雲の阿国を5分で!歌舞伎をつくった女性で日本一のかぶき者?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^