宗祇(そうぎ)といえば、室町時代に活躍した連歌師です。
言葉遊びの連歌から芸術性の高い連歌へと変化させました。
今回、宗祇のかんたんな経歴や旅の生涯、連歌ってなに?どんなもの?について、紹介していきますよ。
宗祇、プロフィール
名前:飯尾 宗祇(いいお そうぎ)
出身地:紀伊国(現・和歌山)
生誕:1421年
死没:1502年9月1日
享年:82歳 (死因不明)
時代:室町時代
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
1421年、宗祇(そうぎ)は、紀伊国(現・和歌山)に生まれました。
生まれた場所については諸説あり、近江(現・滋賀)とも言われています。
旅芸人を仕事とする両親の元に生まれ、幼い宗祇も両親と一緒に全国各地を旅する生活を送りました。
宗祇の連歌師としてのきっかけは、13歳の頃の旅でした。
豊後国(現・大分)に行き、宿泊をしたお寺のお坊さんから、和歌の勉強を進められたのです。
宗祇は、和歌の魅力に惚れこみ、熱心に勉強をする日々を過ごしました。
16歳になると、地元に戻り青蓮寺でお坊さんになりました。
その後は、お坊さんの修行のかたわらで和歌の勉強を続けます。
30歳になった宗祇は京都へ行き、本格的に連歌に取り組みます。
連歌師である宗砌(そうぜい)らの元で学び、どんどん力を付けていきました。
歌人で、武将でもある東常縁(とう つねより)から、古今伝授(こきんでんじゅ・古今和歌集の訳)を授けられます。
周防(現・山口県)の大内氏、若狭(現・福井)の武田氏など各地の大名との繋がりもあり、全国に旅にでました。
当時は、わびさびが主流の東山文化の最盛期でした。
宗祇は、これまで単なる言葉遊びだった連歌を、格調ある芸術としての連歌を作り上げたのです。
宗祇は、連歌師の中で最も優れており、室町幕府第9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)からは、連歌会所奉行を与えられました。
代表作は、水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)です。
これは、後鳥羽上皇の250回忌に、水無瀬(みなせ)神宮に奉納された連歌です。
宗祇と弟子の肖柏(しょうはく)と宗長(そうちょう)の3人で詠みました。
めちゃくちゃ長いので、ここでは載せませんが(・∀・)
こちらでわかり易く紹介されています。(他サイトへ飛びます)
その他には、湯山三吟百韻(ゆのやまさんぎんひゃくいん)、連歌の総論である吾妻問答(あづまもんどう)があります。
宗祇は、「連歌」だけでなく「茶」や「香」でも、才能を発揮した優れた文化人でした。
越後(新潟)から美濃(岐阜)に向かう旅の途中で、82歳の生涯を終えました。
連歌ってなに?どんなもの?
和歌と言えば、「五・七・五(上の句)・七・七(下の句)」の構成が定番です。
連歌は、この五・七・五(上の句)と七・七(下の句)を、複数人で順番に詠んでいくものを言います。
五・七・五のあとに七・七に続いて五・七・五さらに続いて七・七と続くのが連歌です。
平安時代後期に、上の句と下の句を別人が詠むという短連歌ができました。
平安時代末期には、短連歌の詠まれる句を長く続ける長連歌ができます。
長連歌の基本形式は、百句で一作品とするため、「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」とも呼ばれます。
百句を詠んでいく中で、ルールがありました。
五・七・五と七・七は、前に詠まれた句と重複しないように、一体感を持たせつつも、変化ある句の展開が望まれました。
「発句」と呼ばれる一番初めに詠まれる句は、必ず季語と切れ字を入れます。
さらに招待客がいればお客さんが詠む決まりでした。
この発句が独立したものが、後の俳句となり、松尾芭蕉ら俳人に影響をもたらしました。
「挙句」と呼ばれる一番最後の句は、その連歌の評価を決める最も大切な句とされています。
ちなみに、現代の言葉でも使われる「挙句の果て」の語源は、連歌の「挙句」からきています。
「輪廻」は、同じイメージや同じ言葉を指し、連歌はこの「輪廻」を避けて詠みます。
宗祇が活躍した室町時代には、百句で一作品の基本形式が、さらに拡大し百句を10作品集めた「千句」、「千句」を10作品集めた「万句」が登場します。
頭が痛くなりそうですね。(・∀・)
まとめ
宗祇の愛した連歌は、松尾芭蕉に影響を与えるなど、日本の和歌を語る上で、重要な位置づけです。
瞬間的な想像力と発想力が常に求められる「百韻連歌」を芸術の域に高めた宗祇の頭脳は、相当優れていたに違いありません。
ということで、
5分で宗祇について!旅の生涯、連歌とはどんなもの?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^