日本史の最大のミステリーのひとつが「坂本龍馬、暗殺」です。
坂本龍馬といえば「大政奉還」ですが、それに関係した暗殺だったことは間違いなさそう。人気者は常に恨みを買っていたのでした。
今回は龍馬はいつどこで、なぜ暗殺されたのかを紹介していきますよ。
いつ、どこで暗殺された?場所は?
龍馬が暗殺されたのは、江戸時代末期の慶応3年11月15日(1867年12月10日)。
大政奉還の1ヶ月後のことでした。
場所は、京都にある醤油屋。
こちら由緒のある醤油屋で近江屋(おうみや)といいます。
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたこの事件「近江屋事件」は特に有名で、現代まで語りつがれています。
現在でいうところの、京都府 京都市にあたる場所で、「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」なるものが当時の近江屋の隣地に建てられています。
犯人、黒幕は誰?
龍馬は誰に殺されたのか?
ということで議論が絶えませんが、黒幕は、「江戸幕府京都見廻組」によるものという説が有力とされています。
「江戸幕府京都見廻組」の今井信郎(いまいのぶお)ら7名のよる奇襲だったと言われています。
しかし、やっぱり断定できるものではないそうです。
証言者たちの残した言葉は食い違いばかりなのです。
主な証言者として、今井信郎、中岡慎太郎の名前がよく聞かれますが、どうも食い違っていたり、話に筋がなかったりしているようです。
今井信郎は6回証言しているそうですが、言っていることに一貫性がない。
中岡慎太郎の”最期の言葉”を世に伝えた人が3人いるとのことですが、これも3人とも話が違うのだそう。
この特定できていない感じがファンにはたまらないのか「日本史の最大のミステリー」として語りつがれているのですね。
さらに文書などには「新選組」や「薩摩藩」が黒幕だと考えられるものがあり、そのせいでもっと話がややこしくなっています。
やっぱり現在のところ、実行犯がわかるような、決定的な証拠はでてきていないのです。
そもそもなぜ暗殺された?
そもそもなぜ暗殺されたの?って事ですよね。
これだけ時代をつくったお人ですから、当時は敵がすごく多かったのです。
ピストルを常に懐にさしていた事で有名ですが、いつ誰に襲われてもおかしくない事を自分でも分かっていたのでしょう。
龍馬を取り巻く環境は、誰から恨みをかっているのかも、誰に殺されるのかも想像ができなくなっていました。
それぞれの暗殺の可能性を紹介してみます。
薩長同盟
薩摩藩と長州藩の同盟の恨み。
この同盟は戦によって幕府を倒そうと考えていました。
それが龍馬の大政奉還で、スッと江戸幕府終了となってしまったのですから、燃えていた闘志はどこで発散すればよいのでしょうか。
また薩摩の西郷隆盛は、軍人であり武闘派だったから「大政奉還は嫌だったのでは」との見方もあるようです。
土佐藩
元々土佐藩藩士だった坂本龍馬ですが、脱藩していますね。
それで坂本龍馬の活躍ぶりは、土佐藩の人たちとして面白くなく、妬みと恨みを持っていたという見方もあります。
また後の「大政奉還」やその後の「新政府綱領八策」なるものを、土佐藩のものとしたかったのかもしれません。
紀州藩
海援隊の船と紀州藩の船が事故で衝突したことがありました。その時に海援隊の船が沈没してしまったのです。
そこで紀州藩は大金を払わされました。
その時の恨みで暗殺したのでは?という説もあるようですね。
会津藩
会津藩は大政奉還に反対していた幕府内の強硬派でした。
ですから、大政奉還に大きな力を発揮した龍馬を暗殺した言われても不思議ではありません。
幕府からも追われる
幕府を倒された恨み、前に寺田屋で龍馬を捕り逃がした恨みから暗殺したと言われています。
つまりこれが本命ですね。
大政奉還前に、幕府は龍馬を取り逃しているのです。
龍馬は偽名を使って、京都の「寺田屋」に泊まっていました。
そこに捕り方がやって来ます。
しかし、この時入浴中だったお龍(妻)が、裸のまま駆け出し龍馬に知らせたため無事に終わったという話は有名です。
龍馬の提案した新しい政府(大政奉還)ですが、これも当時役職についた人達からしたら無理難題もあったといいます。
大きく時代が動いた江戸幕府末期は、混沌としていたのです。
龍馬を取り巻く環境は、常にツバも飲めないほどの緊張状態だったのですね。
まとめ
坂本龍馬、暗殺について紹介しました。
現在では、数々の文書や証拠物件などを照らし合わせて、「江戸幕府京都見廻組」の今井信郎(いまいのぶお)ら7名による暗殺だったことが有力とされています。
「大政奉還」についてはこちらの記事でわかりやすく紹介しています。
ということで、
なぜ坂本龍馬は暗殺された?その理由や場所、犯人を分かりやすく説明。でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^