ペリーといえば、日本中を震撼させた黒船のトップリーダーです。
日本を開国させ、激動の幕末へといざない、明治維新への第1歩を作りました。
今回、ペリーのかんたんな経歴、来航した場所や目的は?について、紹介していきますよ。
ペリー、プロフィール
名前:マシュー・カルブレイス・ペリー(ましゅー・かるぶれいす・ぺりー)
出身地:アメリカ合衆国ロードアイランド州 ニューポート
生誕:1794年4月10日
死没:1858年3月4日
享年:63歳(病死)
時代:江戸時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
ペリーは、1794年に父・クリストファー・レイモンド・ペリーと、母・セーラの間に3男として、アメリカのロードアイランド州に生まれました。
父も兄も海軍で活躍する海軍一家に育ちます。ペリーも15歳で海軍に入りました。
1812年、二人の兄と共に、インディアン戦争(アメリカvsイギリス)に参加します。
兄のひとりは、アメリカを勝利に導きエリー湖の英雄となった、オリバー・ハザード・ペリーです。
インディアン戦争終了後は、開放された奴隷88人を「エリザベス号」に乗せアフリカを目指しました。
アフリカに戻った黒人たちは、リベリア共和国を作ります。
ペリーは、リベリア建国の恩人として大きな感謝を受けるのでした。
1833年になると、ニューヨーク州ブルックリンにある海軍造船所の所長になります。
その後も大佐、指令官、そして海軍最高位の代将と出世し続けたのでした。
1846年メキシコとの戦争が始まると、蒸気船をメインとする海軍の強化を進め「蒸気船海軍の父」と呼ばれました。
1852年11月にペリーは東インド艦隊司令長官に就任します。
東インド艦隊とは、アメリカ海軍の組織名の一つです。
フィルモア大統領からの親書(国家間の重要な手紙)を持ち、日本に向けて出発したのです。
親書の内容は、日本の開国でした。
バージニア州ノーフォークを出航し、ポルトガル南西のマデイラ諸島、南アフリカのケープタウン、そしてモーリシャス、次はインド洋に浮かぶセイロン、更にシンガポール、マカオ、香港、上海、琉球(沖縄県)と経由して日本にやって来ました。
長旅ですね。
1853年7月8日、ペリー率いる4隻の黒船は浦賀(神奈川県横須賀市)にやってきました。
これが日本中を震撼させた黒船来航です。
あまりに大きい黒船は、見物客でにぎわい大混雑になります。
しかし、誰もがすぐに戦争を予想し、幕府も庶民も日本中が大パニックとなったのです。
ペリーたちは、浦賀周辺の地形を測り、大砲を鳴らし、親書をすぐに受け取ろうとしない日本を威嚇し、強気の態度を見せました。
そして4隻の黒船を停泊できる広い久里浜(神奈川県横須賀市)へと移動しました。
6日後の7月14日に、浦賀奉行所(現代の警察署)の戸田氏栄(とだうじよし)と井戸弘道(いどひろみち)に親書を渡したのです。
開国まで時間が欲しいとお願いした幕府に対し、1年後にまた来る事を約束します。
が、日本の状況が変わりペリーの考えも変わりました。
燃料や食料を補給しようと、香港に寄った際に、第12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)が亡くなったことを知ったのです。
ここで、将軍の死で更に大混乱に陥っている日本に、約6ヶ月もはやく姿を現したのです。
前回の来航から約半年後の1854年2月13日、今度は7隻の黒船とともに浦賀にやってきました。
そして、幾度となく協議を重ね1854年3月31日「日米和親条約」が結ばれました。
ペリーは、215年間続いた鎖国を終わらせ、日本を開国させることに成功したのです。
帰国後は、痛風やリウマチなどの病気に悩まされながらも、「日本遠征記」をまとめました。
そして、ニューヨークで63歳の生涯を閉じました。
来航した場所や目的は?
ペリーが日本に来航した場所や目的を整理してみましょう。
ペリー率いる4隻の黒船は、1853年7月8日に浦賀(神奈川県横須賀市) に、開国を求めてやってきました。
日本への開国を求めた背景には、2つの目的がありました。
1つ目は、中国との貿易。
2つ目は、捕鯨(くじら漁)です。
この2つの目的を達成するために、日本は寄港地としてうってつけだったのです。
1853年7月14日にペリーは、浦賀から場所を移動し久里浜(神奈川県横須賀市)で、親書を渡します。
イギリス、ロシア、フランスそしてアメリカの大国は、アジア諸国を貿易国とするため、我先にと競い合っていたのです。
またアメリカでは、技術の進歩による工業化が進み燃料が必要となりました。
くじらの油は燃料として最適だったのです。
ペリーは、幕府に1年間の猶予期間を与えましたが、約半年後の1854年2月13日に再び7隻の黒船を率いて浦賀に来航し、日本は開国しました。
おもしろ人物エピソードは?
ペリーといえばエリート軍人ですね。
素顔はどんな感じでどんな人物だったのでしょうか。
人物エピソードを3つご紹介します。
1.あだ名が「熊おやじ」
ペリーは、青年期に海軍に入り、誰もが羨むスピードで出世していきました。
仕事に対する姿勢は、マジメそのもので、いつも大声で部下に指示や命令を出していたのです。
大きな体で大声を出すために、付いたあだ名は「熊おやじ」でした。
素敵な愛称ですね。(・∀・)
2.猛烈な勉強家
日本に来航する前に、シーボルトが書いた日本に関する資料を読み、文化や国民性について猛勉強をしていたのです。
日本が鎖国をやめ、開国したのもベリーの猛勉強のおかげかも知れません。
偉人はだいたい勉強家ですよね。
3.幕府の役人とチューをした?
条約締結が実現しそうになったペリーは、幕府側をペリーのポーハタン号に招いて夕食会を開きました。
その際、幕府側の儒学者・松崎満太郎は、これまでに見た事もなかった美味しい酒や豪華な食事にと大興奮で、ベロベロに酔った勢いでペリーにキスをしたのです。
ペリーは松崎をしっかりと受け止めて「条約締結するならキスしちゃうよ」と笑みをこぼしたといいます。
余裕があってかっこいいですね。(・∀・)
まとめ
ということで、
5分で黒船のペリーについて!来航した場所や目的は?でした。
ペリーをかんたんに語るポイントは、
・アメリカ海軍で出世し続けた超エリートだった
・部下に熊おやじと呼ばれていた
・リベリアの建国の恩人、そして蒸気船海軍の父だった
・日本の事を猛勉強していた
・東インド艦隊司令長官として日本を開国させた
・幕末から明治維新へと日本の歴史に大きく影響を与えた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^