大隈重信(おおくましげのぶ)といえば、民主主義の基礎を作り、政治家としても教育者としても活躍した人物です。
今回、大隈重信の簡単な経歴、右足ホルマリン漬けの話、早稲田大学を創立した理由について、紹介していきますよ。
大隈重信、プロフィール
名前:大隈 重信(おおくま しげのぶ)
出身地:肥前国(現:佐賀県)
生誕:1838年3月11日
死没:1922年1月10日
享年:83歳(胆石症)
時代:江戸時代~大正時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
大隈重信(おおくましげのぶ)は、1838年に肥前国(ひぜんのくに・九州)に佐賀藩士の父・大隈信保と母・三井子の長男として生まれました。
大隈家は、石火矢頭(砲術奉行)をつとめる、一流武士の家庭です。
7歳になった重信は、藩校である弘道館で儒教教育(中国の代表的な思想)を受けます。
しかし、「葉隠(はがくれ・武士としての心得をかいた書物)」に基づく教育方針に反発し、1855年に退学処分を受けたのでした。
その後、国学や蘭学そして英語を、学びました。
そして、弘道館(水戸にある学校)の教授として、蘭学や英語を教え、藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)にその活躍を認められます。
重信は、アメリカの独立宣言を知ると大きな影響をうけ、政治家になることを決意し、討幕を目指し脱藩しました。
尊王攘夷派として、大久保利通や伊藤博文らと明治新政府の基礎を作ります。
1868年に明治を迎えると新政府の役人として、外国事務局判事となります。
交渉術は見事なもので、大隈の名が国民に知れ渡るきっかけとなった、イギリス公使・パークス氏との交渉は有名です。
それからも、政治家として参議や大蔵卿と次々に活躍しました。
大隈は、太陰暦を太陽暦へ変え、地租改正や日本を近代化へと発展させるために、殖産興業に力を入れました。
そして板垣退助による「自由民権運動」の高まりに合わせて、民主主義をもとに国会開設を訴えました。
すると伊藤博文と対立。
また、財政上の失敗や、「北海道開拓使不正問題」を指摘したことで、明治新政府メンバーで孤立し、政界を去ったのでした。
1882年3月、国会開設に備えてイギリス流の「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」を結成し、初代・党首となります。
そして10月には、東京専門学校(後の早稲田大学)を設立します。
1888年、伊藤博文からのオファーを受けて、不平等条約を改正するために外務大臣となります。
かつて対立した二人でしたが伊藤博文は、大隈の政治家としての才能を高く評価していたのです。
翌年、右足を失う襲撃事件に襲われます。その右足ホルマリン漬けは有名ですね。(後述しています)
で、外務大臣を辞任。
1896年、こんどは第2次松方内閣で外務大臣となりますが、薩摩勢との対立で辞任します。
1898年、板垣退助らと憲政党を結成し、薩長以外からの初の内閣総理大臣となり日本初の政党内閣を作りました。
しかし板垣退助とのトラブルや薩長派からの妨害などを受け、数ヶ月で総辞職となりました。
その後、政界から退き1907年に早稲田大学の学長となり、文化事業に力を注ぎました。
1914年、薩長を中心とした政治への批判が高まった護憲運動(ごけんうんどう)を受けて、再び総理大臣となります。
その頃世界では、第一次世界大戦が始まりました。
日本は日英同盟をベースにし、イギリスのライバル国ドイツの中国基地を攻め、中国に「対華21ヶ条要求」を提出しました。
1922年、83年の人生に幕を下ろしました。死因は胆石症とされています。
国民葬が行われ、30万人の一般市民が参列し、大隈との別れを惜しみました。
早稲田大学を創立した理由?
大隈重信は、早稲田大学を設立した人物として有名ですね。
1882年に、「学の独立」、「自由精神の育成」をスローガンに、東京専門学校を設立しました。
これが後の、早稲田大学です。
大隈重信は、日本を近代化へ導くために、新しい世代への教育が不可欠であると考えたのです。
同志社大学を創立した、新島襄(にいじま じょう)とも親交を深め、20年後の1902年に早稲田大学と名を改めました。
1920年には、大学令に基づく私立大学設立の認可第1号として以後、多岐にわたる学問、スポーツの分野で日本の教育界をリードしてきました。
右足がホルマリン漬けにされているって?写真は?
実は、大隈重信の右足は、ホルマリン漬けにされているのです。
これはズバリ、写真はありません。ざんねん…。
でも実際に今でも確かにあるようです。
最初は、大隈重信の家で保管され、関係者たちにもみせていたようです。
が、交換する保存液が高価だという理由で、赤十字中央病院に寄付されました。
現在では、佐賀市の大隈家の菩提寺である、龍泰寺(りゅうたいじ)に大切に保管されているようです。
今は一般の人たちは見ることができないとのこと。
しかし、義足なら画像がありました。
こちら。
この義足は、当時世界最高と言われた、アメリカのA.A.マークス社製のもの。
現在は、佐賀市の大隈重信記念館にあります。
ところで、なぜ右足がないのでしょうか。
1889年、大隈重信は、江戸幕府が締結した不平等条約(日米和親条約や日米修好通商条約)を改正しようとチャレンジしました。
しかし、反対派の来島 恒喜(くるしま つねき)から爆弾を投げ込まれる襲撃テロを受けたのです。
そして、右足を切断する大ケガをした。ということです。
ホルマリン漬けの右足には、爆発での傷跡が痛々しくのこっているとのことです。
まとめ
大隈重信とはどんな人物?義足の写真、大学を創立した理由等を簡単にわかり易く紹介でした。
大隈重信をかんたんに語るポイントは、
・民主主義の基礎を作り、日本を近代化へと導いた
・外務大臣、内閣総理大臣と歴任し、政治家として活躍した
・早稲田大学を作った
・右足は記念にホルマリン漬けにしていた
・太陰暦から太陽暦へと変えた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^