新田義貞(にったよしさだ)といえば、鎌倉幕府をほろぼした武将ですね。
大活躍するも、武士は出世できない政治「建武の新政」のせいで、つらい思いをしてきました。
今回、新田義貞のかんたんな経歴、鎌倉攻めのルートや成功の秘密、子孫は残っているのかについて、紹介していきますよ。
新田義貞、プロフィール
新田義貞(にったよしさだ)
正式名 源義貞(みなもとのよしさだ)
出身地 上野国(現在の群馬県)
生誕 1301年(正安2年)(推定)
死没 1338年(延元3年)8月17日
享年 38才
時代 鎌倉時代
何した人?どんな人?
新田義貞は、鎌倉幕府をほろぼした武将です。
室町幕府を開いた足利尊氏のライバルとされた武将ですが、尊氏にはほとんどやられっぱなしだったそうです。
ここでは、新田義貞のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
新田義貞は、上野(こうずけ・群馬県)の新田荘(にったしょう)を支配していました。
そんなとき、鎌倉幕府から高い税金を求められていて、不満がたまり、幕府と対立しました。
そこに護良親王(もりよししんのう)から「鎌倉幕府をたおせ」というよびかけが届きます。
義貞が鎌倉幕府をたおそうと準備すると、幕府に不満をもつ武士がぞくぞくと集まり、20万もの大軍ができました。
そして義貞軍は鎌倉へ攻めこみ、幕府をほろぼすことに成功したのです。
しかし、大活躍、大手柄をあげたにもかかわらず、義貞は後醍醐天皇の「建武政権(けんむせいけん)」のせいで出世できませんでした。
「建武の新政」は、天皇中心の政治で、貴族や公家を出世させて、武士たちは出世できないものでした。
そんな政治に、足利尊氏が反乱をおこすと、義貞は足利尊氏を倒すように命令されます。
「尊氏をたおせば、さすがに出世できるだろ」と考えた義貞は、戦に向かいました。
しかし敗北。
その後も、湊川(みなとがわ・兵庫県)で、ふたたび尊氏軍と戦うのですが、連続で敗れています。
さらにその後、後醍醐天皇のまさかの裏切りが入ります。
義貞を裏切って、尊氏と仲直りをしたのです。
義貞は越前(福井県)へのがれて、足利軍と戦いつづけたのですが、戦死しました。
鎌倉攻めのルートは?成功の秘訣は?
鎌倉攻めの成功の秘訣は、ルートが良かったとのことです。
ちょっと紹介してみます。
新田義貞は最初、鎌倉幕府をたおそうと、一気に正面から攻め込もうとしました。
しかし、幕府に到着するまえに、切通し(きりどおし・山を切り開いて作った道)で、幕府軍に敗れてしまうのです。
この切通しは、幕府の鉄壁の守りなのです。
そこで、義貞は、守りの薄い、稲村ヶ崎(いなむらがさき)から回って攻めることにしました。
この稲村ヶ崎は、海で、ふだんは潮が満ちていて通れない場所なのです。
そこを、潮が引いたときに回って、そのまま一気に鎌倉幕府に攻め込んだのでした。
そして鎌倉幕府をほろぼすことに成功したのです。
成功の秘訣はなんといっても、このルートが良かったからなのです。
ちなみに、この時の有名な逸話。
稲村ヶ崎を通るとき、義貞が刀を海に放り込み竜神に祈ったことで、潮が引いたという伝説があるのですよ。
子孫はのこっている?
新田義貞の子孫は現代まで続いているのでしょうか。
これは、現代まで血はつづいているようです。
しかし、息子の義宗(よしむね)、孫の貞方(さだかた)、曾孫の貞邦(さだくに)は、共に反乱の罪で処刑されていて、直系は断絶しています。
ただ、孫の貞方の子供・貞政(さだまさ)は、姓を「堀江」として、北条氏につかえました。
この貞政(さだまさ)は庶子(正式な婚姻関係にない両親から生まれた子)でした。
義貞、義宗のやしゃご(孫の子供)は「中村」を名乗り、伊達氏に仕えました。
一族であった岩松満純(いわまつみつずみ)は義宗の子と自称しています。
またその家臣だった横瀬氏(よこせし)も新田義貞、義宗の子孫を自して、明治維新後に姓を「新田」に戻しています。
この後、岩松氏が新田氏の嫡流(ちゃくりゅう・直系の血筋)と認められて華族になりました。
新田義貞の血はまだ現代にも生き続けているんですね。
まとめ
新田義貞を五分で!鎌倉攻めのルートや成功の秘訣?子孫は残っているの?でした。
新田義貞について、かんたんにまとめると、
・鎌倉幕府をほろぼした
・鎌倉攻めでは、稲村ヶ崎から攻めるというルートがよかった
・足利尊氏と対決するも、ことごとく敗れた
・現代まで子孫はつづいてる!
最後まで読んでいただきありがとうございます^^