直江兼続(なおえかねつぐ)といえば、あの「愛」の兜ですよね。
漫画「義風堂々」や「花の慶次」のイメージがある人も多いのではないでしょうか。
今回、直江兼続のかんたんな経歴、兜の「愛」の意味、直江状の内容、子孫やお墓について紹介していきますよ。
直江兼続、プロフィール
直江兼続(なおえかねつぐ)
出身地:越後(現在の新潟県)
生誕:1560年
死没:1619年12月19日
享年:60歳(病死)
時代:室町時代-安土桃山時代
直江兼続ってなにした人?どんな人?
直江兼続は、上杉景勝に家老(家臣の最高位)としてつかえ、義と愛を重んじた武将です。
現代でも非常に人気が高く、関ヶ原の戦いのきっかけの人物としても知られています。
ここでは、直江兼続のかんたんな経歴を紹介していきますよ。
かんたんな経歴
直江兼続は、上杉家の家臣の子として生まれました。
幼い頃からかしこく、6歳のとき、11歳の上杉景勝の家臣として招かれました。
大人になってからも、優秀な家臣として景勝をたすけます。
その才能は、あの豊臣秀吉をも感心させ、「私の家臣にしたい」と何度も説得されたのですが、兼続は「つかえるのは景勝だけです」と断っています。
関ヶ原の戦いのときは、敵・徳川家康を倒すため、東北地方の家康側だった伊達政宗や最上義光らを攻めます。
しかし、家康が勝つと、景勝は降参。
兼続と景勝は、新しい領地の米沢(山形県)にうつったのでした。
「直江状」って?関ヶ原の戦いのきっかけになった?
直江兼続が徳川家康にかいた書状、「直江状」は有名です。
これで、家康は激怒し、関ヶ原の戦いのきっかけとなりました。
豊臣秀吉の死後、家康は天下を取ろうとしていました。
そのため家康は、上杉景勝に自分にしたがうように求めました。
しかし兼続はこれを断り、家康のすることを悪く書いた手紙を送りつけます。
家康は激怒。景勝を攻めることを決め、「関ヶ原の戦い」に発展したのです。
直江状の内容は、景勝にいろいろと言いがかりをつけてくる家康に、皮肉を込めながら反論したものです。
内容を超かんたんにまとめると、
・上杉家が刀、槍、鉄砲を集めていることで、謀反(裏切り)を疑っているようだが、、私達は田舎者なので、武器集めが趣味なのです。茶など飲んでいるなら武器を集めたいのです。
・上杉家は、会津に引っ越したばかりなので、国をつくり、城を建て、橋をかけることは当たり前です。
・家康さまは、朝鮮出兵について話がしたいらしいですね。あんなに朝鮮出兵には難色を示していた家康さまが、そんな話をしたいなど、非常にアホらしいですね。
・もし気に入らないのなら、会津(福島県)にまで来てみなさい。いつでも相手になってやりますよ。
ってな感じ。(・∀・)
しかし、この「直江状」は原本が残っていないため、創作が盛り込まれている可能性もあります。
肝が座っていた?政宗と超仲悪い?
直江兼続というと、マンガやゲームでは好青年、正義の味方に描かれがちです。
でも実際は、好青年で教養がありながら、実に家老(家臣の最高位)らしい、肝の座ったエピソードもあります。
家臣が、雑用の男を殺してしまい、遺族に訴えられたことがあります。
兼続はお金で賠償させてくれといいますが、遺族を聞き入れてくれません。
そこで兼続は、その遺族をすべて斬り殺して、閻魔大王に、雑用の男を返すように頼む手紙を持たせました。
恐ろしい一面です。
また、伊達正宗と非常に仲が悪かったといわれています。
伊達政宗が「金の大判」を見せびらかした時。
政宗は、末座にいた兼続に、
「扇子に乗せてみるので遠慮をしないで見るといい」と言うと、
「こんな汚いもの、触れるか」と投げて返したといいます。
さらに、上杉が徳川幕府に従ったあと、兼続は、大名・伊達正宗とすれ違っても挨拶しませんでした。
それを伊達政宗が注意すると、兼続は「政宗様は何度もお目にかかっていますが、ほぼ戦いで負けて逃げるところしか見ていないので、気が付かなかった」と言いはなちます。
上杉の家臣の兼続と、徳川よりの大名である伊達政宗では、立場がぜんぜん違います。
そうとうな胆力ですね。
まあ、彼の最大のやっちゃった事件は、直江状。
家康を激怒させて、関ケ原の戦いのきっかけをつくったことでしょうけども。
兜の「愛」ってどういう意味?
兜の上にどーんと出た「愛」の文字。
この「愛」の意味ってなんなのでしょう。
これは、仏教の愛染明王(あいぜんみょうおう)からとっているのです。
上杉家は仏教に深く帰依していました。
仏に仕える「毘沙門天」に上杉謙信が熱心な信仰を注いだことは有名ですね。
明王は、
- 不動明王(ふどうみょうおう)
- 降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
- 軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
- 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
- 大威徳明王(たいいとくみょうおう)
- 愛染明王(あいぜんみょうおう)
- 孔雀明王(くじゃくみょうおう)
が、あります。
こちらのサイトで、明王について、それぞれわかりやすく紹介してくれています。
http://www.butsu-zou.com/myouou.html
写真で、兜の「愛」は雲の上に乗っていますよね。
雲の上に仏さまの名前を一文字乗せることで、長い名前を省略するというルールがありました。
この場合「愛染明王」の愛を、乗せているのですね。
とりあえず世間で思われている「お館様love、命」という意味ではありません。
あれは戦場で、愛染明王の加護を願うものです。
子孫は現代まで続いてる?お墓は?
直江兼続の子孫は現代まで続いているのでしょうか。
残念ですが、直江家自体は、数代後に断絶しています。
いま生き残る直江の子孫は、兼続の直接の子孫ではなく、兼続の兄弟の子供の系譜です。
徳川家康の大事な部下である、本多正信(ほんだ まさのぶ)の二男が兼続の婿養子だったのです。
今も子孫の方が土地を守っていますよ。
お墓ですが、直江夫妻は本来、徳昌寺(とくしょうじ・新潟県)に埋葬されるはずでした。
しかし、少し争いごとがあってどこに埋葬したか分かっていないそうです。
ただ、高野山(こうやさん・和歌山県)にお骨の一部がおさめられているそうですよ。
まとめ
直江兼続は、主君・上杉景勝に忠実に尽くし、義を重んじた武将でした。
マンガやゲームなどでも様々な人物像で描かれますが、激しい気質であることは共通しています。
兜の「愛」の意味が、いつも曖昧でしたが、今回まとめて「Love」ではないということ。
「愛染明王」の「愛」だと、改めて知りました。(・∀・)
ということで、直江兼続をかんたんに語るには、
・上杉家(景勝)に尽くし、義を重んじた
・肝の座った、強い男だった
・兜の「愛」は、「Love」ではなく、「愛染明王」から。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^