毛利元就(もうりもとなり)といえば、「戦国随一の知将」ともいわれる名将ですね。
今回、毛利元就のかんたんな経歴、どんな性格なのか、家紋の意味、三本の矢の教えについて紹介していきます。
毛利元就、プロフィール
毛利元就(もうりもとなり)
出身地:安芸国吉田郡郡山城(現・広島県安芸高田市吉田町)
生誕:1497年3月14日
※1497年4月16日という説もある。
死没:1571年7月6日
享年:74歳
時代:室町時代(戦国時代)
何した人?どんな人?
毛利元就は、この時代に珍しく祖先がはっきりしている戦国武将のひとりです。
彼の祖先は、毛利季光(源頼朝の参謀)であり、もう血筋からして凄い人なのです。
では、毛利元就のかんたんな経歴を紹介していきましょう。
かんたんな経歴
1497年、毛利元就は次男として誕生しました。
父は、安芸の国人領主である毛利弘元(もうりひろもと)。
母は、福原広俊(ふくばらひろとし)の娘です。
1500年、室町幕府と大内義興(おおうち よしおき)の勢力争いが起こります。
それに毛利家が巻き込まれると、父・毛利弘元は隠居をはじめ、家督を長男・毛利興元(もうりおきもと)に譲ります。
そして、父は幼い元就をつれ、多治比猿掛城(たじひさるがけじょう・広島県)へと移ったのですが、1506年にアルコール中毒で父が死去してしまいます。
1507年、元就は、後見人であった井上元盛(いのうえもともり)によって、猿掛城・多治比より300貫を横領され、城から追い出されてしまったのです。
城を追い出されてしまった元就の生活はとても貧しく苦しいものでした。
荒家で寝泊まりした経験もあり、領民たちから「乞食若様」と呼ばれていたこともあるそうです。
そんな彼の姿をかわいそうに思った、父の継室(後妻)・杉大方(すぎのおおかた)は、実家に帰らず、他家に嫁ぐことなく元就を大切に育てたそうです。
杉大方は、元就に朝日を拝む念仏信仰を教えたため、元就は一生涯「朝の念仏」を欠かさずに行っていたと言います。
1511年、杉大方は元就の兄・興元(おきもと)の許可を得ると、元就は元服(成人の儀式)を果たし、多治比(丹比)元就と名乗り、分家を立てました。
1516年、兄・興元が父と同じアルコール中毒によって亡くなりました。
すると、毛利家の家督は、兄・興元の長男・幸松丸(こうまつまる)が継ぐこととなったのです。
しかし、幸松丸はまだ幼かったため、叔父である元就が後見人となったのですが、家中はそれに動揺したと言います。
この事態にいち早く気付いた武田元繁(たけだもとしげ)は、吉川氏の有田城へと侵攻したのです。
吉川氏と毛利氏は、姻戚関係でしたので、毛利家は救援にいかなくてはなりません。
元就は、幸松丸の代理として有田城の救援に向かったのですが、なんとこれが元就の初陣だったのです。
元就は、猛将で知られる熊谷元直(くまがい もとなお)を見事討ち取ります。
そして敵軍の大将・武田元繁を、矢で討死にさせるという大活躍、大勝利をものにしたのです。
この戦はのちに「西国の桶狭間」と呼ばれるようになり、元就の名が全国に轟いた瞬間でもありました。
その後、尼子政久(あまごまさひさ)に仕えた元就は、たぐいまれなる智略によって勝利を重ね、毛利家の家臣たちの信望も集めていったのです。
1517年、吉川国経(きっかわくにつね)の娘を正室へと迎えます。
1523年には、長男・毛利隆元(もうりたかもと)を授かっています。
1523年、兄の長男・幸松丸が9歳という若さで亡くなりました。
すると、周囲の推薦で、元就は27歳で毛利家を継ぎました。
このときから、名前を「多治比元就」から「毛利元就」と改めます。
しかし、この家督相続にはゴタゴタがありました。
元就が継ぐことを良しと思っていなかった家臣たちがいたのです。
その家臣たちは、尼子経久(あまごつねひさ)と共に、坂広秀一らを粛清・自害させるなどをしました。
坂氏の一族である桂城の主・桂広澄(かつらひろずみ)が責任を感じて自害しているのです。
このことがきっかけで、尼子経久と元就は敵対関係となり、1525年に再び、尼子経久を倒そうとする大内義興(おおうちよしおき)の傘下へと加わることになります。
どんな性格だった?
「戦国随一の知将」・毛利元就。
異名だけで頭がよさそうですが、どんな性格だったのでしょうか。
元就は、妻をとても愛し、子供たちには熱心に教育をする、とってもいい親父だったといいます。
そして、言うことを聞かない家臣たちには、自身を卑下して、自分が下にさがり相手を立てて説得したといいます。
信長様みたいな「オレさま野郎」ではなかったようですね。
家臣からの信頼もアツく、元就を裏切るようなことはありませんでした。
独立性も強く、優秀な名将として日本で有名でしたから、本当に器の大きい人だったのでしょう。
それでいて、幼い頃から活発な性格で「うつけ者」といわれることがあったといいます。
やっぱり偉人はちょっとくらいは破天荒でなのですね。(・∀・)
家紋の意味は?
毛利家の家紋は「一文字三星」と言います。
これですね。
漢字の「一」と、「星3つ」ですね。
まさに「一文字三星」です。(・∀・)
「星って”★”じゃないの?」と思われるかもしれませんが、家紋の世界では「●」が星を表しており、呼び方も「星」ではなく「曜(よう)」と呼ぶそうです。
毛利元就の先祖は、大江(おおえ)といい、阿保新王(あぼしんのう)を祖先としています。
その大江氏が、「一文字三星」の家紋をつかっていたのです。
阿保新王は、平城天皇の第一皇子であったことから「一品の位」にあり、「一品親王」と称されていました。
大江氏はこの一品の文字を図案化し、「一」の文字に3つの星をつけて、家紋を新しく作りだしたのです。
つまり、この家紋は天皇の意味も込められた、とても由緒のある家紋なのです。
「一文字三つ星」は、大江氏の後裔である毛利氏をはじめ、那波・長井・寒河江などの、大江流諸氏に使われています。
三本の矢の教えって?
「三本の矢の教え」。実はこれ、とっても有名ですね。
諸説あるのですが、ここでは通説を紹介いたしましょう。
毛利元就には、3人の息子がいました。
元就は3人の息子たちに矢を1本渡し、「この矢を1本、折ってみろ」といいました。
息子たちは、かんたんにバキッと折りました。
次に、矢を3本にまとめたものをそれぞれに渡し「矢を3本、一気に折ってみろ」といいました。
息子たちは、力をいれますが子供の力ではとても折れませんでした。
つまり元就は、「おまえたち3人が力を合わせれば、どんな困難も超えられる。1人では脆くても、3人なら強固になる。」といったことを教えたのです。
これが通説なのですが、そもそもこの「教え」はなかったとも言われていて、現代の創作であるという可能性も指摘されています。
でも創作でもなんでも、いい「教え」ですよね。(・∀・)
まとめ
毛利元就を5分で!どんな性格で家紋の意味は?三本の矢の教えとは?でした。
毛利元就について、かんたんに語るポイントは、
・幼い頃に父と共に多治比猿掛城へと移ったが、父が亡くなり城を追い出されてしまった
・幼い頃は「乞食若様」と呼ばれ、困窮生活を送っていた
・彼のことを不憫に思った、杉大方(父の後妻)のもとで朝日を拝む信仰を学んだ
・初陣と結婚は戦国武将のなかでも遅く、才能を発揮したのは家督を継いだ27歳ごろ
・三本の矢の教えは創作の可能性もある
最後まで読んでいただきありがとうございます^^