本居宣長(もとおりのりなが)といえば、江戸時代の国学者で「源氏物語」や「日本書紀」の研究をしていましたね。
なんと鈴コレクターで自宅に「鈴屋」という屋号をつけているくらい鈴ラブな人でした。
今回、本居宣長のかんたんな経歴、卑弥呼は2人いたと唱えた事について、鈴が大好きだったことについて、紹介していきますよ。
本居宣長、プロフィール
本居宣長(もとおりのりなが)
出生地 伊勢国(三重県)
生誕 1730年6月21日
死没 1801年11月5日
享年 71歳
時代 江戸時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
本居宣長は、伊勢国(現在の三重県)で木綿商の次男として生まれました。
幼少から習字や漢籍を学び執筆活動も行っていました。
1758年に医師を開業するかたわら、「源氏物語」や「日本書紀」の研究に励んでいました。
この時期に賀茂真淵(かものまぶち・国学四大人の一人)という国学者に入門し「古事記」の本格的な研究にのめり込んでいきます。
門人(弟子)も非常に多く、亡くなるまでに487人もの門人がいたと言われています。
本居宣長の代表作は、古事記を解読した「古事記伝」の他にも源氏物語を注解した「源氏物語玉の小櫛」があります。
ちなみに遺言で自分のお墓のデザインを示したと言われており、最近のデザイン性溢れるお墓の先駆けともいえるでしょう。
卑弥呼は2人いたとか言い出した?
卑弥呼といえば、大昔の日本の女王ですよね。
本居宣長はその卑弥呼が2人いたと唱えたのです。
ちょっと紹介してみます。
邪馬台国があったという根拠が示されている史書は、中国の「魏志倭人伝」のたったの二千文字だけです。
昔から国学者の間で、邪馬台国とその女王卑弥呼について研究されてきました。
本居宣長の著書「馭戎慨言」では、卑弥呼という人物は、神功皇后や大和朝廷の名を語った熊襲(やまと王権に抵抗したとされる人々)の偽物だという考えを示しています。
本居宣長は、邪馬台国は大和朝廷ではなく熊襲で、勝手に本物の卑弥呼になりすまし魏に服属したと考えているのです。
しかもその偽物の卑弥呼は、実は男性だったという考えも示しているのです。
つまり本物の卑弥呼と、歴史上活躍したつくられた卑弥呼は別々にいたという考えです。
しかしこれは、通説とまではなっていませんね。
鈴が大好きで愛用していた?
本居宣長は、鈴が大好きで愛用していたことでも有名です。
鈴が大好きすぎて鈴を京都で作らせたり、自分の屋号に「鈴屋」とつけたりと鈴ラブなのがわかります。
現在切手やコインなどさまざまなコレクターがいますが、本居宣長は、鈴が大好きでコレクションしていました。
書斎には「柱掛鈴」が掛けられており死去するまで大事にしていました。
その他にも浜田藩主の松平康定からもらった駅鈴や友人荒木田尚賢からもらった十字鈴があります。
医師として働き、国学者として研究も行い忙しかった本居宣長にとって鈴の音は、癒しの音だったのでしょうか。
しかし本居宣長には勝という配偶者がいるのですが、こんなに鈴を集めて屋号まで「鈴屋」にして何も思わなかったのでしょうかね。(・∀・)
まとめ
本居宣長をはじめとする国学者が研究し、解読することが出来なければ私たちが学んでいた歴史は異なっていたかもしれません。
日本の歴史が書かれている古い史書があっても、解読できなければ日本の歴史を紐解くことが出来ません。それこそ宝の持ち腐れというやつです。
本居宣長は、日本の歴史を紐解いてくれた仕事人だったのです。
ということで、
本居宣長を5分で!卑弥呼は2人いたと唱えた?鈴ラブだったって?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^