源義朝(みなもとのよしとも)と言えば、源氏の歴史を語る上で重要な人物でありながら、中々脚光を浴びることがないのかも知れません。
でも、鎌倉幕府を開いた源頼朝と、牛若丸の名で知られる源義経のお父さんと聞けば誰もがピンとくるのではないでしょうか。
今回は、源義朝のかんたんな経歴、平清盛とは親友にしてライバル?、義朝が眠っている墓所は?について紹介していきますよ。
源義朝、プロフィール
名前 源義朝(みなもとのよしとも)
出身地:不明
生誕:1123年
死没:1160年2月11日
享年:38歳(死因・謀殺)
時代:平安時代末期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
源義朝は、1123年に父源為義(みなもとのためよし)の長男として生まれました。
父の為義は検非違使という、朝廷を守る警察官のような仕事をしていました。
父は当時、源氏のリーダーとして活躍するも、自身のトラブルが原因で、周囲からの信頼を失い、源氏にとっては不運が続いていました。
そんな背景が理由なのか、義朝は、父から遠く離れた相模国(現・神奈川県)で育ちます。
立派に育った義朝は、鎌倉を拠点に関東の豪族たちを従えるほどまでに権力を持ちました。
その後、父のいる京へとやってきた義朝は、奥さんである由良御前(ゆらごぜん)の実家のバックアップもあり、1153年に下野守(しもつけのかみ)へと出世し検非違使である父を超します。
これは、祖父である源義親(みなもとのよしちか)以来の出世でありました。
そして父に代わって源氏のリーダーとなります。
1156年天皇家の家督争いである「保元の乱(ほうげんのらん)」が起こり、平清盛(たいらのきよもり)とタッグを組み勝利するのでした。
この勝利により、敵として戦った父・為義の首を、子の義朝が自らが切ることになります。
父の愛情を知らずに育った義朝とは言えども、父の助命を願い最悪な事態を回避しようと試みますが叶いませんでした。
なんとも悲劇的な事であり、この時から世間に親殺しのレッテルを貼られます。
義朝は父親の首を切ってまで勝利したのに、清盛は順調に出世コースを歩み、権力を利用し身勝手な政治ばかり行うのでした。
同じ武士同士でありながら、清盛に不満を抱いた義朝は藤原信頼(ふじわらののむより)と打倒平氏をかかげ、平清盛と戦います。
これが1160年の「平治の乱」です。
しかし清盛率いる平氏に敗北し、逃げ込んだ先で裏切りに合い、入浴中に殺され38歳の若さで生涯を閉じたのでした。
平清盛とは親友にしてライバル?
源義朝の人生で、欠かせない人物が平清盛ですね。彼とは親友でありライバルなのです。
重要な出来事が「保元の乱」と「平治の乱」です。
天皇家後継者争いの「保元の乱」は、後白河天皇VS崇徳上皇の戦いでした。
義朝は、清盛と共に、後白河天皇の勝利へと導きます。
しかし、この勝利のウラには、崇徳上皇側の、父・為義との永遠の別れを意味していました。
ともあれ清盛にとっては、義朝が親と別々の道を選んでまで一緒に勝利を飾った仲ですから、武家のライバル源氏とは言え、かけがえない親友であったに違いありません。
しかもこの勝利を称えられて平家繁栄と清盛の大出世コースが待ち受けていたのですから清盛にとっては親友を超えた恩人です。
そして平治の乱で、義朝は清盛に倒されるも、清盛の優しさによって頼朝ら子どもたちの命を救ってもらうのでした。
この優しさの背景には、保元の乱で一緒に戦った義朝への熱い想いがあってこそだと思われます。
こちらの記事で、平清盛について、かんたんにわかり易く紹介しています。
>>>5分で平清盛について!性格は優男?貿易の港ってどこだっけ?
墓所はどこ?
源義朝の墓所はどこ?について。
義朝のお墓は、愛知県知多市美浜町の野間大坊(のまだいぼう)というお寺にあります。
「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされる源義朝の墓には、数え切れないほどの木太刀(きだち)が御供えされています。
無防備な入浴中に裏切りに合い命を落とした義朝が如何に無念だったかは、計り知れません。
また境内には、義朝の首を洗ったとする「血の池」があり、国にとって何か不穏な動きがあると、赤く染まるというエピソードがあります。
まとめ
武家のツートップである源氏と平氏、その源氏として生まれるも義朝の時代は、清盛率いる平氏ばかりに陽の光がさし、義朝はその陰の中を生き抜きました。
もしも、入浴中に木太刀を持って居たならば、息子の頼朝らと一緒に平家を滅亡させ、義朝が征夷大将軍として鎌倉幕府を開いていたのかも知れません。
ということで、
源義朝を5分で!平清盛とは親友にしてライバル?墓所は?でした。
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