明治時代

明治天皇とはどんな人物?すり替え説の写真やエピソードはデタラメ?

明治天皇(めいじてんのう)といえば、「五か条の御誓文」や「大日本帝国憲法」を発布し、日本を近代国家へと導いてくれた人物ですね。

今回、明治天皇の簡単な経歴すり替え説の写真やエピソードについて梅毒だった?について、紹介していきますよ。

 

明治天皇、プロフィール

明治天皇
名前:睦仁(むつひと)
出身地:山城国 (現・京都)
生誕:1852年11月3日
死没:1912年7月30日
享年:61歳(病死)
時代:江戸時代から明治時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

治天皇は、1852年11月3日に山城国(現・京都)の中山邸に生まれました。

父は 孝明天皇で、母は公家・中山忠能(なかやま ただやす)の娘・慶子(よしこ)です。

4歳までは、母の実家である中山邸で過ごし、その後、天皇の居る御所に移りました。

この時、睦仁(むつひと)の名を父・孝明天皇より受けています。

 

1867年、父の孝明天皇が天然疱(感染症)で亡くなると、14歳の若さで122代天皇として即位しました。

時は、幕末の動乱期であり日々目まぐるしく世の中が動いた時代でした。

大政奉還によって、第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)から、政権を朝廷に返してもらいました。

しかし、実際の政治には、まだ幕府が深く関わっていました。

そこで、岩倉具視(いわくらともみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)らによる「王政復古の大号令」により、天皇を中心とした新政府を作ったのでした。

 

1868年、新政府の基本方針である「五か条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」を発布し、元号を明治と定め、都を東京に遷しました。

1869年に「版籍奉還」、1871年に「廃藩置県」が行われ、近代国家としての日本が確立していきました。

国民は、みんな平等になり苗字を名乗ります。

食事や衣服も洋風が取り入れられ、髪型も変わり、文明開化を楽しみました。

日本で初めての鉄道が出来たのもこの頃です。

 

1889年に、「大日本帝国憲法」を発布します。

主権は天皇にある立憲君主制の基礎となりました。

立憲君主制とは、憲法によって君主の権力が決めてあることです。

 

1894年の日清戦争、1904年の日露戦争と明治天皇自らが指揮をとり、日本を勝利へと導いてくれました。

その後もイギリスやフランスなど大国の仲間入り出来るように、軍事力や経済力を高め強化することに力を注ぎます。不平等条約の改正も行いました。

 

1912年7月、最期は糖尿病の悪化により61歳で崩御されました。

経歴だけみても、偉大な天皇だったことがわかります。




すり替え説の写真って?

治天皇ですが、実は「すり替え説」があるので、ちょっと紹介してみます。

即位する前後で、残されている写真や人物像が違うと言われているのです。

 

よく比較される写真がこちら。

↓↓即位直後の明治天皇(真ん中)

↓↓即位後、活躍しているときの明治天皇

たしかに、上は下よりも覇気に欠けるというか、のほほんとした感じというか。

それでも、写真自体がぼんやりしているので、断言はできません。

しかし、そもそもの人物像が変わって、明治天皇に仕えていた者は騒然となったとされています。

すり替え説は当時からあったとも言われているのです。

 

こんな感じ。

即位前
・内向的なインドア派
・利き手が右利き
・乗馬は下品と思っていた
・アバタ顔(ボコボコの肌)じゃない
・字が下手

即位後
・体格の良いアウトドア派
・利き手が左利き
・乗馬と相撲が大好き
・アバタ顔(ボコボコの肌)だった
・字が上手

などが、挙げられているのです。

 

性格は即位前はインドア派だったのに、即位後は活発なアウトドア派に。

即位後にボコボコ肌になり、髭で隠したり。

即位後に字が上手くなったり。

そもそも利き手が変わったり。

これが本当ならすごい違和感なわけです。

 

なみに、すり替わって明治天皇となったのは、大室寅之祐(おおむろとらのすけ)だといわれています。

この大室寅之祐は、後醍醐天皇のつくった南朝の子孫です。

そもそも明治天皇を中心とした新政府の基には、倒幕の理由である尊王思想がありました。

尊王思想=正統な天皇家、という事になります。

この思想をめぐり、歴史をさかのぼると、室町時代の後醍醐天皇に行き着くのです。

後醍醐天皇が作った南朝が正統とされ、その南朝の子孫こそが大室寅之祐です。

 

また、活躍した明治天皇は、後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成の銅像を作り、南朝こそが正統と結論付けています。

すり替え説に関する真相は謎に包まれていますが、完全にデタラメとはまだ言えないかもしれません。

※追記:あくまで「すり替え説」が一つの説としてあるということを紹介しています。当ブログでこの「すりかえ説」を推めているわけではありません。コメント欄でも指摘がありますが、上の即位直後と紹介した写真は伏見宮貞愛親王であることが濃厚です。




梅毒ってほんとう?

治天皇には、すり替え説の他にも梅毒だったとのうわさがあります。

梅毒とは、性病の一つで日本には江戸時代(訂正) 室町時代にヨーロッパから入ってきたとされています。

 

明治天皇が梅毒だったといわれる理由は、子どもの大正天皇があまりにも病弱で、先天性の梅毒とされていたからなのです。

また明治天皇には、5人の親王(男児)と10人の内親王(女児)が居ましたが、その殆どが若くして亡くなっています。

こちらの噂も真相はわからないのですが、これらの事から、梅毒だった説が浮上してしまっているのです。

 

まとめ

明治天皇は、14歳で問題だらけだった日本の政治に取り組みました。

新しい国を作ろうとした明治新政府のトップに立ち、様々な政治改革で日本を近代国家化へと導いてくれました。

明治天皇のバイタリティーは凄過ぎますよね。

 

ということで、
明治天皇とはどんな人物?すり替え説の写真やエピソードはデタラメ?でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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