松平定信(まつだいらさだのぶ)といえば、「寛政の改革」が有名ですね。時代としては田沼意次の後に登場した人物です。
今回、松平定信のかんたんな経歴、田沼意次との関係について、「寛政の改革」の内容について、紹介していきますよ。
松平定信、プロフィール
松平 定信(まつだいら さだのぶ)
出身地:江戸
生誕:1759年1月25日
死没:1829年6月14日
享年:72歳
時代:江戸時代中期 – 後期
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
松平定信は1759年に御三卿(将軍に跡継ぎがいない場合に将軍となる人物を出す家のこと、御三家と同様)の田安徳川家の初代当主の七男として江戸に生まれました。
幼いときから頭が良く、兄が病で体が弱かったため、将来は田安家の後継者、そしていつかは徳川将軍になる人物と期待されていました。
しかし、当時の権力者であった田沼意次の政治を「賄賂(わいろ)政治」として批判したため、存在を疎まれ、結果として1774年に白河藩主(現在の福島県)の養子として追い出されてしまいました。
白河藩主の養子になるということは、将軍後継者である御三卿の地位を失うことを意味します。
つまり、ここで松平定信が将軍となる道は途絶えてしまったのです。
その後、1783年に松平定信は白河藩主に就任します。
「天明の大飢饉」で大きな被害を受けた白河藩の立て直しに力を注ぎました。
その手腕を幕府から買われ、1787年に第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。
松平定信は老中首座に就任した後、「寛政の改革」を進めていきます。
「寛政の改革」は一応の成果はあげたものの、幕府のみならず様々な方面から批判が殺到しました。
そのせいで将軍である徳川家斉との関係が悪化し、老中就任6年後の1793年に老中をクビになってしまいます。
クビになった後、松平定信は白河藩の藩政に専念し、1829年にこの世を去りました。
寛政の改革を超かんたんに説明
「寛政の改革(かんせいのかいかく)」は、江戸時代に松平定信が主としておこなった、政治です。
特に、経済政策に力を主眼としていました。
商人を重視した田沼政治と違い、松平定信は農民を中心とした庶民を重視しました。
ちょっとわかり易く紹介しましょう。
松平定信は弱者保護の経済政策を考えました。
当時、「天明の飢饉(近年で最悪の飢饉)」によって庶民は疲弊していました。
また、下級武士の多くが借金を抱えていました。
そこで、松平定信は庶民向けに、
・「囲い米」(飢饉対策のために穀物の備蓄を諸藩に命じた)
・「人足寄場」(無職の人に対する職業訓練所)
・「七分積金」(現在で言う町内会費の節約分を貧民救済に充てた)
などの政策を実行しました。
一方、武士向けには「棄捐令」を発令し、武士の借金を帳消しにしました。
このように松平定信は弱者保護を目的とした経済政策を行いました。
また、松平定信は弱者を手厚く保護する一方で、庶民に対して厳しい節約を強いました。
この節約、倹約策が庶民から嫌われ、失脚の原因となりました。
寛政の改革を一言で言ってしまえば、天明の大飢饉で打撃を受けた庶民の救済を目的とした政策です。
ここに言う庶民とは主に農民や町人、下級武士を指し、商人は入っていません。
このように松平定信の政策は商業を重視した前任者の田沼意次のものとは明らかに違います。
松平定信と田沼意次の関係は非常に興味深く、また、松平定信失脚の一因ともなっているのです。
田沼意次との関係は?失脚原因は?
松平定信が江戸幕府の「老中」に就任した当時、田沼時代からの賄賂政治が問題とされていました。
実際、松平定信が就任した際に流行った歌があります。
「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」
この歌は、田沼の汚れた政治を白河(白河藩主の松平定信のことです)が清く正しくしてくれるという期待が込められた歌です。
この歌から、寛政の改革は清い政治を目指したものだということが見て取れます。
しかし、紹介した通り、寛政の改革は人々の期待を裏切るものとなりました。
そこで、先ほどの歌に代わって流行った歌が一首あります。
「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
この歌は、松平定信の政治に嫌気が差して田沼時代を懐かしむ歌です。
人々は田沼時代よりも良い政治を期待していたものの、結果は田沼時代よりも悪い世の中となってしまったことが分かります。
松平定信の失脚原因は、田沼時代よりも良い政治を行うことができなかったことにあるといえます。
最初に紹介したように松平定信が将軍になれなかった原因が田沼意次、「寛政の改革」の内容は田沼政治へのアンチテーゼ、失脚原因も田沼意次。
松平定信と田沼意次との関係は切っても切れない関係なのです。
まとめ
松平定信を5分で!田沼意次との関係、寛政の改革ってなに?でした。
松平定信をかんたんに語るポイントは、
・御三卿の家に生まれ、将軍になる可能性もあったこと
・田沼意次を批判したことで、将軍への道が閉ざされたこと
・白河藩主として活躍し、老中にまでなったこと
・寛政の改革を実行するものの、大きな成果を挙げられず失脚したこと
・松平定信と田沼意次の切っても切れない関係性
最後まで読んでいただきありがとうございます^^