小林一茶(こばやしいっさ)といえば俳句が有名ですが、その人生は想像を超えるドラマチックな出来事ばかりが続いていました。
今回は、小林一茶のかんたんな経歴、俳句の代表作、そして性豪すぎて過労死?について紹介していきますよ。
小林一茶、プロフィール
名前:小林 一茶(こばやし いっさ)
本名:小林弥太郎
出身地:信濃北部(現・現長野県上水内郡)
生誕:1763年6月15日
死没:1828年1月5日
享年:64歳(死因 中風 脳血管障害)
時代:江戸時代後期
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
小林一茶は、1763年に長野北部の農家の長男として生まれました。
3歳の時に生みの母を亡くし、8歳から継母に育てられますが、継母や異母弟に馴染めずに15歳で江戸へ奉公に出ることとなります。
25歳で二六庵竹阿(にろくあんちくあ)に弟子入りし俳諧を学び始めます。
30歳で故郷の信濃に帰るも、すぐに俳句修行のため、近畿や九州そして四国などを旅して俳句を作ります。
39歳の時に、病に倒れた父の看病で信濃に戻るのも、残念ながら一茶の思いは届かずに、父は亡くなってしまいます。
その後は一茶にとって過酷な時期でした。
12年に渡り一茶vs継母・異母弟との遺産相続争いを繰り広げるのでした。
そして父が亡くなるまでを書いた「父の終焉日記」は、自身のプライベートを世に公開する私小説の先駆けでした。
父の遺産の半分を手にした一茶は、家屋の他に田んぼや畑に山林を所有し、ちゃんと年貢も納めます。
また江戸へ戻り、俳人として活躍するも、50歳で再度故郷の信濃に戻ります。
これまでずっと独身だった一茶は、52歳で「菊(きく)」という女性と1度目の結婚をします。
3男1女を授かるも、子どもたちは皆幼くして亡くなってしまいます。
妻の菊も37歳の若さでこの世を去るのでした。
2度目は62歳で、「雪(ゆき)」という女性と結婚しますが、不仲が理由でわずか半年で離婚します。
3度目は64歳で、「やを」という女性と結婚し、やをは待望の子どもを宿します。
しかしその頃、一茶の住む柏原宿辺り一帯は大火に見舞われます。
唯一焼け残った土豪の中で暮らしますが、やがて生まれてくる我が子の顔を見ることなく一茶は、65歳の生涯を閉じたのでした。
俳句の代表作は?
小林一茶の代表作は、「一茶発句集」と「おらが春」という俳句文集が有名ですね。
はじめは「単なる田舎の俳句」と評されていましたが、明治時代に正岡子規が注目、評価した事もあり、松尾芭蕉や与謝蕪村と並ぶ俳人として広く世に知られるようになりました。
一茶の作品は約22000句あり、非常に沢山の俳句を世に残しています。
読んだだけで意味がわかることも特長で、世代を問わずに親しまれています。
子どもや自然、家族をよく詠んでいることからほのぼのとした優しい印象を受けると共に、幼い日に亡くした母への想いや温かい家族への憧れを強く感じます。
有名で代表的な句は、
- 雪とけて村いっぱいの子どもかな
- 名月をとってくれろと泣く子かな
- 我と来て遊べや親のない雀
- 大根引き大根で道を教へけり
- めでたさも中位(ちゅうくらい)なりおらが春
- 悠然として山を見る蛙かな
- やせ蛙まけるな一茶これにあり(やせがへる まけるな いっさここにあり)
- これがまあ終の栖か雪五尺(これがまあ つひのすみかか ゆきごしゃく)
- ともかくもあなたまかせの年の暮(ともかくも あなたまかせの としのくれ)
などがあります。
心地よく親しみやすい句です。
性豪すぎて過労死したって?
小林一茶が性豪すぎて、妻が過労死した説。
優しいほのぼのとした俳句の作風からはとても創造できませんが、なんと、一茶は自分の日記に妻との夜の営みの回数が詳細に記録されているのです。
「8月8日5回、8月12日夜3回、8月15日夜3回、8月16日3回、8月17日夜3回、8月18日夜3回、8月19日3回、8月20日3回、8月21日4回」
ぱねえっすね。(・∀・)
驚くのは、一茶の1回目の結婚が52歳とときだったので、この絶倫っぷりは52歳以降だというのです。
1回目の結婚は、一茶が52歳のとき。相手は菊(きく)という女性。
菊は、一茶の夜が連日激しすぎるせいで37歳の若さで過労死したといわれています。
子どもを宿していても夜の営みを求められていました。
2回目の結婚は、62歳のとき。相手は、雪(ゆき)という女性。
不仲が理由で離婚していますが、こちらも原因はあまりにも多すぎる夜の営みにあると言われています。
3回目の結婚は、64歳のとき。相手は「やを」という女性。
一茶は65歳で死にますが、死の直前まで営みを続けていたことも書かれてあります。
歴史上最強の性豪です。(・∀・)
まとめ
小林一茶とはどんな人物?性豪すぎて過労死?俳句の代表作は?でした。
小林一茶をかんたんに語るポイントは、
・不遇な家庭環境で育った
・継母、弟と激しい遺産争いをした
・22000もの俳句を詠んだ
・正岡子規に高く評価され、世に知られるようになった
・史上最強の性豪
最後まで読んでいただきありがとうございます^^