江戸時代

春日局とはどんな人物?なぜ大奥をつくった?徳川家光とは血は繋がってない?

春日局(かすがのつぼね)といえば、徳川3代将軍・家光(いえみつ)の乳母で有名です。

戦国最大のミステリー事件に翻弄されながらも徳川家に尽力した人生は、日本の歴史を語る上で欠かす事の出来ない重要人物です。

今回、春日局の簡単な経歴、なぜ大奥をつくったのか徳川家光とは血は繋がってない?について紹介していきます。

 

春日局、プロフィール

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名前:斎藤福(さいとうふく)
1629年朝廷より春日局を賜る

出身地:美濃(現・岐阜県)
生誕:1579年(天正7年)
死没:1643年10月26日
享年:64歳(死因・不明)
時代:安土桃山時代~江戸時代前期

 

簡単な経歴、何した人?どんな人?

1579年、春日局は美濃国(現・岐阜県)に、明智光秀の家来であった斎藤利三と稲葉良通の娘・安のあいだに生まれました。

斎藤家は武家の名門であり、ある日まで春日局は姫として過ごします。

そのある日とは、春日局が4歳の時に起きた戦国最大のミステリーとも言われる「本能寺の変」です。

 

この本能寺の変で、父・斎藤利三は明智光秀と共に織田信長を討ちますが、そのわずか数日後の「山崎の戦い」で豊臣秀吉に破れてしまったのです。

春日局は、母の実家がある京へ逃げる途中に、父の処刑される現場を目撃しており、そしてそこから裏切り者の娘としての人生が始まります。

一時、京へ逃げた後は、各地を転々とするも、母方の親類である三条西(さんじょうにし)家に養育され、ここで歌道や書道そして香道などを始めとする、様々な教養を身に付けました。

 

がて年頃となった春日局は、稲葉正成に嫁ぎ3人の男児を儲け安泰したかに思えた人生ですが、度重なる夫の浮気により離婚を決意し、家光の乳母となったのです。

ちなみに当時の乳母とは、世の女性たちの憧れの職業でした。

ましてや家康の孫・家光の乳母であるならば今でいう超エリート官僚といったポジションです。

 

そして乳母となった春日局は、今度こそ幸せを掴みかけたと思ったのは束の間、3代将軍を巡る争いに奔走することとなりました。

家光(幼名・竹千代)には、弟の忠長(幼名・国松)がいました。

家光が病弱で内気な性格であるのに対し、弟の忠長は丈夫で積極的な性格です。

この事から、次なる3代将軍は忠長という声が江戸城内あちこちで聞こえるようになりました。

 

春日局はこれを黙って聞くわけにはいきません。

春日局は誰もが驚く大胆な行動に出ます。

お伊勢参りと見せかけて駿府城(静岡)の家康まで、次期将軍は家光にと直接交渉に出向いたのです。

こうして春日局は、次期将軍は家光である事のお墨付きを家康からもらい、ようやく安堵するのでした。

 

が経ち、家光は将軍として活躍します。が、家光は特に女性に興味を示さなかったといいます。

そこで春日局は、徳川将軍家の血を絶やさぬように女性探しに力を注ぎます。各地から家光が好みそうな女性を集めました。

これがあの江戸城大奥であり、徳川の血筋を守るための一大組織を築き上げたのでした。

なぜ大奥をつくったのかと言えば、「家光に子どもをつくらせて、一族を絶やさないようにするため」でしょう。

 

もうこの頃の春日局の勢いは止まりません。

実の息子である稲葉正勝は家光の家来になり、前夫の稲葉正成の出世にも関わりました。

また朝廷から春日局の称号と従二位(じゅにい)という位の高い立場の人が貰える位まで手に入れたのです。

 

ころで東京都文京区に春日という地名があり、ここは春日局に由来しています。

歴史に名を残しただけでなく、地図にも名前を残した春日局にはびっくりです。

エリート官僚の中でも大出世した春日局は人生の勝ち組になったとも言えるでしょう。

 

日局の人生を劇的に変えたきっかけの事件が「本能寺の変」でした。

戦国最大の謎といわれる「本能寺の変」は、こちらの記事でかんたんにわかり易く紹介しています。

>>>本能寺の変を簡単にわかり易く!織田信長と明智光秀の関係は?




徳川家光とは血は繋がっていない?

日局は徳川家光の乳母であり、実の親子関係ではありません。血は繋がっていないですね。

家光には生母であるお江与様がいらっしゃいます。

家光と春日局の関係があまりに印象的なので、親子では?と思われがちですが、乳母なのです。

 

時の身分高き世の女性たちは、自ら子育てをするような事はありませんでした。

理由のひとつには、体力勝負の子育てはふさわしくないということが挙げられます。

と、いう訳で家光も例外なく乳母に養育されました。

乳母の仕事は単に母乳をあげるだけではなく、教育方針まで幅広い分野で権限を持つことがありました。

これが、噂の真相です。

 

光は、生まれつき体が弱く性格も内向的でしたが、春日局のアイディアから生まれた栄養満点の七色飯(なないろめし)によってめきめきと体力をつけ天下への1歩を進めていたのでした。

また家光が病の際は、自分は一生涯に渡り薬を飲まない事を誓い、家光の快復を祈願したエピソードは有名であり、命を掛けて家光を守った事は実の親子以上の愛情をも感じます。

 

ころで、徳川家光の実の母・お江与様といえば、あの戦国一有名な三姉妹、「浅井三姉妹」の3番めの娘ですね。

お江与様の人物エピソードなど、こちらの記事でかんたんにわかり易く紹介しています。

>>>江って(浅井三姉妹)どんな人物?エピソードや美人説は本当?

 

まとめ

春日局とはどんな人物?なぜ大奥をつくった?徳川家光とは血は繋がってない?でした。

春日局からは学ぶべきは、どんな逆風にも負けないことではないでしょうか?

人生何が起こるかわからない、けど生きてさえいればなんとかなる!と言っているように思います。

 

ということで、春日局をかんたんに語るポイントは、

・戦国最大のミステリー本能寺の変で、裏切り者の娘になってしまった。
・色々あったけど徳川3代将軍家光の乳母になった。
・家光とは血の繋がりはない。
・次期将軍は家光だと家康に直訴した。
・徳川の血を絶やすことがないように大奥を作った。
・文京区春日の由来の人物。

 

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りょーま(管理人)
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