岩倉具視(いわくらともみ)といえば、500円札や岩倉使節団が有名です。
コネを使って、幕末から明治の日本をリードしてくれました。
今回、岩倉具視のかんたんな経歴、チョコを初めて食べた使節団?について、500円札の価値は?について、紹介していきますよ。
岩倉具視、プロフィール
名前:岩倉 具視(いわくら ともみ) 幼名:周丸(かねまる)
出身地:山城国(現・ 京都)
生誕:1825年10月26日
死没:1883年7月20日
享年:59歳(咽頭がん)
時代:江戸時代から明治時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
岩倉具視(いわくらともみ)は、1825年に次男として山城国(現・京都)で生まれました。
父は、公卿(くぎょう・国政を担う最高幹部)の堀河康親(ほりかわやすちか)です。
幼い頃からちょっと変わった子供で、大胆な発想や発言により周囲から浮いていました。
そしてびっくりするほどに聡明でした。
そんな変わり者の具視をみた朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはら のぶはる)は、「この子は将来大物になる」と予感し、岩倉家への養子縁組を進めます。
そして14歳の時に、公家の岩倉具慶(いわくら ともよし)の養子になりました。
養父・岩倉具慶は、つよい尊王(天皇を尊ぶ)派だったことが、のちの具視の思想に大きく影響を与えていくことになります。
岩倉家は、村上源氏久我家(むらかみげんじこがけ)の公家でしたが、公家社会では下級とされ、権力を持てない弱い立場でした。
そこで、鷹司政通(たかつかさ まさみち)に歌道を習いに行きます。
公家の中でトップクラスに君臨する鷹司家のコネを使って、孝明天皇の側近となったのです。
1858年、幕府老中の堀田正睦(ほったまさよし)が朝廷に、「日米修好通商条約締結」に向けて孝明天皇に許可を求めてきました。
すると、朝廷関白の九条尚忠(くじょう ひさただ)は、「幕府に任せる」とした為、具視は条約反対派の公家88人と九条家を猛烈に批判します。
これを、「廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)」といい、具視の発言力と行動力が公家社会に大きな影響を与えた出来事でした。
しかし結果として、幕府は天皇の許可なく条約締結をします。
そしてこの条約締結に反対した者を処罰する「安政の大獄」が始まりました。
安政の大獄の主導者・伊井直弼(いいなおすけ)が、桜田門外の変で暗殺されると幕府は力を失い始めます。
1861年、幕府は孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)に嫁いでもらいました。
世間からの信頼を回復しようと、和宮と第14代将軍・家茂の結婚を朝廷に願い出てきたのです。
具視は、幕府の願いを聞き入れることで、朝廷が大きく力を持つチャンスとし、公武合体(朝廷と幕府による政治)策による結婚に力をつくしました。
1862年、攘夷派(身内で固める派)だったのに、朝廷の和宮との結婚に力を注いだ具視に対し、孝明天皇は激怒し蟄居(ちっきょ・外出禁止)生活を命じます。
蟄居生活中でも、攘夷派として天皇を中心とした国を目指し、西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らとの交流を続けました。
1867年、孝明天皇が亡くなり明治天皇が即位すると、蟄居は解消され、具視は政界へと戻ってきました。
その後、大政奉還が行われても、第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の政治関与は続き、慶喜派の山内容堂(やまのうちようどう)もいました。
ずっと慶喜派をつらぬき、抵抗を続ける山内に、具視が「刺すぞ」と言った所ようやく引き下がりました。
そして、大久保利通らと王政復古の大号令を発し、明治天皇のもとに新政府を作ることに成功したのです。
明治新政府では、「版籍奉還」や「廃藩置県」の政治改革を行いました。
1871年、岩倉使節団のリーダーとして、アメリカやヨーロッパに渡りました。
これは不平等条約の改正と、日本の国づくりの勉強のためです。
残念ながら、条約改正は出来ずに帰国しましたが、欧米諸国との力の差を目の当たりに具視は、「富国強兵」の政策をし、日本を近代化に導いてくれました。
帰国後は西郷の征韓論(武力で朝鮮を開国しようとすること)に反論し、不平士族に襲われるという、不運に見舞われます。
1883年、咽頭がんにより59歳で亡くなりました。
明治維新に貢献したことで、日本初の国葬(国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀)が行われた偉大な人でした。
使節団が日本で初めてチョコレートを食べた?
岩倉具視が率いる「岩倉使節団」。
日本で初めてチョコレートを食べたのは、この岩倉使節団なのだそうです。
1873年1月、彼らはフランスを訪問し、パリ郊外のチョコレート工場を見学に行きました。
工場内を見学後にチョコレートを食べた記録が残っています。
そして当時の記録に、
「銀紙に包み、表に石版の彩画などを張りて其(それ)美を為す。極上品の菓子なり。此の菓子は人の血液に滋養を与え、精神を補う効あり。」
と、書いてあり、他にもカカオの生産地からチョコレートの製法まで紹介されました。
というわけで、日本で最初にチョコレートを食べたのは岩倉使節団一行のようです。
その後、1878年に両国若松風月堂が日本で初めての国産チョコレートが「貯古齢糖(ちょこれいと)」として販売しました。
肖像画になった500円札の価値は?
岩倉具視といえば、500円札の肖像になっていましたね。
現代の500円は硬貨ですが、1982年に500円硬貨が登場するまではお札でした。
500円札は、2種類あり昭和26年発行のB号券と昭和44年発行のC号券があります。
もちろん現在でも、お金として使うことが出来ます。
気になる500円札の価値ですが、現在でも市場に2億枚以上が残っているとされていることから、そのほとんどが発行時と同じく500円のままのようです。
ただし、お札のナンバーが揃っていたり、ミスプリントと呼ばれるものは、500円以上の価値があるとされています。
まとめ
岩倉具視を5分で!チョコを初めて食べた使節団?500円札の価値は?でした。
岩倉具視をかんたんに語るポイントは、
・下級の公家からコネを使って大物政治家になった
・大胆な発言で、大政奉還と王政復古の大号令を成功させた
・和宮と家茂の結婚に尽力した
・日本で初めてチョコレートを食べた岩倉使節団のリーダーだった
・500円札の肖像画の人物だった
・明治維新に貢献し、初めて国葬が行われたすごい人だった
最後まで読んでいただきありがとうございます^^