江戸時代

市川団十郎(初代)を5分で!現在の歌舞伎役者で血の繋がりは?

市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)といえば、歌舞伎ですよね。

歌舞伎座で「よっ!成田屋!」と歓声が出るのは知っていますか?この「成田屋」とは市川団十郎の屋号です。

今回、初代・市川団十郎はどんな人物だったのか、かんたんな経歴現在の歌舞伎役者で血の繋がりは?について、紹介していきますよ。

 

市川団十郎(初代)、プロフィール

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市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)
出生地 甲州(山梨県)
生誕 1660年
死没 1704年3月24日
享年 45
時代 江戸時代

 

かんたんな経歴、何した人、どんな人?

川団十郎の幼少は、謎に包まれています。

芝居の道に入り、市川海老蔵と名乗り1675年に市川団十郎と名乗りました。

 

「遊女論」の不破伴左衛門が当たり役となり、「金平六条通」の坂田金平も当たり役となり荒事芸を完成させました。

江戸で人気が出たので、京都でも一旗揚げようと上洛しますが、人気が出ずに江戸に帰りました。

 

川団十郎は、歌舞伎の市川流の家元です。

現在も歌舞伎に市川一門があることから長い歴史があり、歌舞伎で最も権威のある名前なのです。

元禄文化で人気のあった歌舞伎で絶大な人気を誇る役者でした。

 

表作は「遊女論」の不破伴左衛門、「金平六条通」の坂田金平、「わたまし十二段」の佐藤忠信などです。

歌舞伎だけではなく、俳界では椎本才麿に入門して才牛(さいぎゅう)と名乗りました。

狂言役者としても三升屋兵庫(みますやひょうご)と名乗り、「産会名護屋」という作品も残しています。

 

市川団十郎を、歌舞伎の頂点とさせたのは、荒事芸(歌舞伎の特殊な演技演出)でした。

これは、超人的な力をもった主役が、そのヒーローっぷりを見せるものでした。

 

歌舞伎役者として江戸歌舞伎の頂点に君臨していましたが、「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に、生島半六という役者に舞台上で、なんと刺殺され45歳の短い生涯を終えました。

 




初代・団十郎と、現在の歌舞伎役者で血の繋がりは?

代・団十郎と、現在の歌舞伎役者では、血の繋がりはあるのでしょうか。

結論からいうと、血のつながりはありません。

歌舞伎役者の襲名は、必ずしも血が繋がっていなければならないということではなく、養子として親子関係を結べば襲名できるのです。

 

市川一門で代々受け継がれている団十郎は、基本先代の子どもです。(特に長男)

しかし江戸幕府の徳川家のように「長幼の序」を守っているわけではなく、五男であったり養子であったり婿養子であったりしました。

現代でも人気歌舞伎役者の六代目・片岡愛之助は、二代目片岡周太郎の養子です。

 

 

まとめ

江戸時代に絶大な人気を集めた市川団十郎ですが、最期は舞台上で共演していた役者に刺されるという壮絶な最期でした。

団十郎を襲名した半数近くがこのような非業の最期を遂げているのです。

三代目は公演先で病を患い死去、六代目は風邪をこじらせ急死、八代目は公演先で自殺、十一代目は襲名後3年半で病死、十二代目は白血病を患い死去しました。

この少し危うい感じが現代まで続く成田屋「市川一門」の魅力なのかもしれません。

十二代目市川団十郎の長男である市川海老蔵も、現代の歌舞伎役者の若手スターで時代劇やテレビなどでも活躍しています。

市川一門の活躍にこれからも目が離せませんね。

 

ということで、
市川団十郎(初代)を5分で!現在の歌舞伎役者で血の繋がりは?でした。

 

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りょーま(管理人)
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