板垣退助(いたがきたいすけ)といえば、むかしの「百円札」の肖像画の人ですね。
「板垣死すとも自由は死せず」の名言は有名です。
今回、板垣退助のかんたんな経歴、暗殺未遂や功績について、お札の価値は?について、紹介していきますよ。
板垣退助、プロフィール
名前:板垣 退助(いたがき たいすけ)
出身地:土佐国(現・高知県)
生誕:1837年5月21日
死没:1919年7月16日
享年:83歳(病死)
時代:江戸時代-明治時代-大正時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
1837年、板垣退助は土佐国(現・高知県)の、乾家(いぬいし・氏族のひとつ)に生まれました。
幼名は猪之助(いのすけ)と言います。
父の乾正成(いぬいまさなり)は、馬廻をつとめるエリート武士でした。
乾家は、武田信玄の重臣・板垣信方の子孫だったことから、退助は後に板垣を名乗ります。
幼少期の退助は、まさに絵に描いたような腕白坊主で、わざとお守りをトイレに捨ててバチが当たるかと試したり、天ぷらとスイカを食べてお腹が痛くなるかを試したりしていました。
19歳のときに、この破天荒な性格のせいか、高知城下への立ち入りを禁じられます。
すると、たくさんの庶民と触れ合うことができ、さまざまな意見を聞くチャンスに恵まれました。
身分制度が厳しかった土佐藩は、エリート武士と農民が話をすることがなかったため、身分に関係なくみんなと会話を交わす退助は変わり者扱いされていました。
そして、この時の触れ合いが「自由民権運動」のベースとなったのです。
退助はその後、土佐藩の責任者である、吉田東洋(よしだとうよう)からのオファーもあり、土佐藩でどんどん出世し活躍していくこととなります。
1867年、倒幕のために、薩摩藩と土佐藩の軍事同盟である「薩土密約(さっとみつやく)」が結ばれると、翌1868年の「戊辰戦争」では、倒幕軍のリーダーとして土佐藩兵を率いて、新政府軍に大勝利をもたらしました。
1871年、明治新政府で参議(政治家の役職)となり、西郷隆盛と一緒に「征韓論(武力による朝鮮の開国)」を訴えます。
が、しかし、海外視察から戻った岩倉具視(いわくらともみ)らに反対され、1873年に明治新政府のメンバーから外れます。
征韓論では敗れた板垣でしたが、板垣や西郷の意見に賛成していた約600人の官僚も一緒に新政府から去り、全国の民衆からも熱い支持を得ていました。
1874年、退助は地元高知県に戻り、自由民権運動の中心となった立志社(りっししゃ)を立ち上げ、翌1875年に全国で初めての政治団体愛国社(あいこくしゃ)を結成しました。
その後、民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を提出し、自由民権運動を盛り上げました。
明治政府は、全国的に盛り上がる自由民権運動をコントロールしようとしますが、勢いは増すばかりでした。
そこで10年後に国会を開設することを宣言したことから、1881年、板垣退助はフランスの国をモデルに自由党を結成し、総理(自由党の党首)となりました。
岐阜で、演説中にあの有名な「板垣死すとも自由は死せず」と言った暗殺未遂が起こりましたが、命は助かりました。
1896年、第2次伊藤内閣で内務大臣として、1898年には隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれた大隈内閣の内務大臣として活躍しました。
1900年に政界を引退。
その後も、社会事業に力を入れ、1919年に83歳でこの世を去りました。
功績、偉業はどんなものがある?
板垣退助の功績、偉業というと戊辰戦争での大活躍と自由民権運動の政治活動が有名です。
1868から1869年に起きた戊辰戦争(新政府軍VS旧幕府軍)では、新政府軍として土佐藩のトップに立ち大活躍しました。
旧幕府が支配していた甲府城をゲットし、新撰組を迎え撃ち、会津戦争でも圧倒的な強さで旧幕府軍を北へ北へと追い込みました。
そして新政府軍を勝利にみちびき、日本は明治を迎えたのです。
自由民権運動とは、板垣退助が中心となって国民の誰もが参加できる政治を目指した一大ムーブメントです。
明治維新後は、ライバルだった会津藩をライバル視することなく公正な立場を取り続けたことから、会津の人の心を掴みました。
その噂は全国的に知れわたり、板垣の名はさらに有名になりました。
1874年1月に「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」を政府に提出しました。
これは、当時の明治政府は、倒幕派であった薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)の出身者がコアメンバーだったために、疑問をもった板垣退助が、一般人も政治に自由に参加しよう!と民主主義を言い出したというものです。
この考えに、伊藤博文や薩長出身の政治メンバーも、少しずつ賛成の姿勢を示したことで、1889年に大日本帝国憲法ができて、翌年1890年には日本で初めての衆議院議員選挙が行われました。
暗殺未遂について、犯人や襲われた理由は?
暗殺未遂について。犯人や襲われた理由はわかっているのでしょうか。
1881年に自由党を結成し総理(党首)となった板垣は、翌年岐阜での遊説中に襲われました。
あの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の名言を生み出した岐阜事件ですね。
その犯人は、愛知県で小学校教員をしていた、相原尚けい(あいはらしょうけい)という人物でした。
相原は、ゆっくりと順序立てて考える漸進(ぜんしん)主義の持ち主で、板垣のスピードある革命的な考えが気に入らずに犯行に及んだようです。
相原は無期懲役となりますが、1889年に大日本帝国憲法発布の恩赦(特別な減刑)で釈放されると板垣の元に謝罪に訪れました。
板垣は、「相原の思想も自由だ」といい、自分を殺そうとした相原を許したされているのですから、やっぱり凄い男です。
100円札の価値は?
現在の100円は、硬貨ですが以前は100円札が存在していました。
1952年から発行されたB号券の肖像画に板垣退助が選ばれていたのです。
これですね。
板垣退助の100円札は、初期、前期、後期に分けられ、未使用で保存状態がよい場合には、初期は数万円、前期は数千円、後期は1000円前後の価値があると言われています。
ミスプリントやお札のナンバーが揃っているものは、さらに価値が上がるようです。
もっていてこだわりがないのなら、査定してもらうのもありかもですね。(・∀・)
まとめ
ということで、
5分で板垣退助!暗殺未遂や功績について、お札の価値は?でした。
板垣退助をかんたんに語るポイントは、
・土佐藩兵を率いて、戊辰戦争で大活躍した
・政治ムーブメント自由民権運動のリーダー
・フランスをモデルとした自由党を結成した
・民衆に優しく、民主主義の発展に大きく貢献した
・暗殺犯の思考も自由だからこそ犯人を許した
最後まで読んでいただきありがとうございます^^