井伊直弼といえば、幕末の大名で日本には欠かせない人ですね。
でもどうしてもドラマとかのせいで、悪徳政治家という印象がついてしまっているようです。
今回は、井伊直弼がどんな人物だったのか。「桜田門外の変」についてや、その後の子孫、お墓について紹介していきますよ。
井伊直弼、プロフィール
井伊直弼(いいなおすけ)
生誕:1815年11月29日
死没:1860年3月24日
享年:44歳
時代:江戸時代末期
井伊直弼って何した人?どんな人?
ここでは、井伊直弼が何をした人なのか、流れをカンタンに紹介していきますよ。
キーワードは、「安政の大獄」「桜田門外の変」です。
井伊直弼のすごいところ、流れ
彦根藩主(滋賀県)になった直弼は、幕府の「大老」という役職にもつき、当時の日本のNo.2、実質トップの権力者にまでなりました。
この時、ペリーやハリスが日本にやってきて、
「鎖国なんてやめて、貿易しようぜ!」
と迫られます。
この出来事で、「天皇をうやまい、外国の勢力なんて追い払え」と主張する、尊王攘夷派の活動が強まります。
当時の日本が西洋と戦っても、絶対に勝てないことは、直弼の目には明らかでした。
実質日本のトップである直弼の意向で、幕府は外国と交流をもつことにしたのです。
しかし、外国ぎらいの孝明天皇はこれに大反対。
直弼は、天皇の許しがでないまま、交流をもつことを決心します。
また、条約は外国に有利な内容で、日本には不利なものでしたが、直弼は「受け入れるしかない」と腹をくくります。
この条約は、「日米修好通商条約」といいます。
外国ぎらい側の人間たちは、激しく怒りますが、直弼は逆らう人々を捕えて100人以上を処刑します。
この逆らった人々を処刑したことを、「安政の大獄」といいます。
「安政の大獄」のせいで、いろいろな人から恨まれます。
恨まれまくっていた直弼は、江戸城の桜田門外で暗殺されます。
この暗殺事件を「桜田門外の変」といいます。
井伊直弼を「自分に反対する人を処刑しまくった、悪い政治家」のようなイメージで語られることもあります。
しかし、直弼があのとき外国と交流することを決めていないで、ぐずぐず外国と戦っていたら、日本は植民地にされていたかもしれません。
井伊直弼がしたことは、ほんとうに凄いことなのです。
桜田門外の変ってなに?
桜田門外の変は、井伊直弼が暗殺された事件ですね。
上にも書いた、直弼のやり口(安政の大獄)は、大きな反発を招いていたのです。
井伊直弼が邪魔で仕方がない、天皇無視して政治を好きにした「国賊」ということで成敗すべしと、井伊直弼を殺す計画を立てます。
決行したのが桜田門外の変です。
直弼の屋敷は門から500メートルのところにあります。
城に上がろうとした直弼を襲って、家来を倒し直弼は串刺し、銃弾の的にして殺害しました。
18名の襲撃隊だったといわれています。朝堂々の襲撃です。
江戸城の警備どうなっているんだといわれても仕方がないですね。幕府の面子は丸つぶれです。
子孫は続いてる?
直弼の子孫は今どうなっているのでしょう。
お墓は、世田谷区の豪徳寺です。
他にも彦根(滋賀県)に、血がしみ込んだ土を埋めた供養の場などがあります。
家臣は籠の近くにいたものは最後まで守ろうとし、他のものも深く悲しみました。後は彦根以外の領地栃木にも供養塔があります。
直弼の後は二男が継ぎましたので、血統は守られています。二男の孫が彦根市長になっていますね。
まとめ
直弼のしたこと(むりやり開国)は間違っていたのでしょうか。
当時の幕府の力では開国しないと、植民地にされかねない状況でした。
武士も戦を忘れて平和ボケしてしまっている状態ですから直弼がしたことは強引でやり方は問題があったのですが、荒れた日本を一時守ったのです。
直弼より、せっぱつまった国にした江戸幕府の方がよろしくはなかったでしょうね。
ということで、井伊直弼をカンタンに語るポイントは、
・開国をむりやりして、日本を救った!
・開国のとき反抗した人々を、容赦なく100人以上処刑した(安政の大獄)
・開国がむりやりすぎて、反感をかい、暗殺された(桜田門外の変)
・「大老」という役職で、日本のトップとして政治をしていた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^