チンギス・ハンと言えば、モンゴル帝国創始者として、中世モンゴルの英雄として知られている大スターです。
今回、チンギス・ハンのかんたんな経歴、源義経と同一人物説について、紹介していきますよ。
チンギス・ハン、プロフィール
名前:チンギス・ハン(ちんぎす・はん)
幼名・テムジン(てむじん)
出身地:デリウン・ボルダク(現・モンゴル国ヘンティー県ダダル郡)
生誕:1162年5月31日
死没:1227年8月25日
享年:66歳(病死)
時代:平安時代後期から鎌倉時代前期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
チンギス・ハンは、1162年に、父・イェスゲイ、母・ホエルンの長男として現在のモンゴルに生まれました。
父は、有力な部族のリーダーでしたがチンギス・ハンが幼い日にライバル部族に殺されてしまうのでした。
リーダーであった父を失ったチンギス・ハンの部族の人々は、目に見えて力を失っていくのがわかると次々と去っていく者が多く、残されたわずかな家来と母や幼い兄弟とともに厳しい困難続きの生活が始まりました。
ある時、チンギス・ハンの行動に不満を持っていた、異母弟のベクテルに命を狙われますが、見事に反撃し弟を殺害しています。
そしてまたある時は、たくましく成長したチンギス・ハンの姿に脅威を抱いた別の部族によって一家襲撃事件が起こったりしました。
またある時は、財産である馬のほとんどを盗まれたりと幾つもの試練が襲いかかってきました。
が、その度に強くたくましくなっていくチンギス・ハンなのでした。
こうして力を付けつつ、幾つもの遊牧民族をまとめ始めると、かつての父の家来がさらにチンギス・ハンに従うようになり、その力はどんどん加速していきました。
度重なるトラブルが落ち着き、幼馴染であるボルテと結婚します。
が、そのボルテまでもが奪い去られるという事件が起こります。後にボルテは無事にチンギス・ハンの元に戻ってきています。
そうして大小のモンゴルの遊牧民族を更にまとめあげ、モンゴル帝国を建国しました。
モンゴル帝国を建国後は、更なる領土拡大と世界征服に向けて度重なる遠征を繰り返しました。
最後は、中国西北の国である西夏征服中に、病によって亡くなりました。
自分が死んだ事が敵国にバレると、攻め込まれる可能性があると遺言を残していることから、チンギス・ハンの死は隠し通されました。
源義経と同一人物説って?
ところで、チンギス・ハンには源義経と同一人物説があるのです。
源義経とは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で、幼名「牛若丸」でも有名です。
「弁慶と牛若丸」の話は聞いたことがあるでしょう。
「源平の戦い」では、見事な戦いぶりで功績を挙げ平氏を倒すも、その大活躍ぶりが気に入らないとして、兄・頼朝に命を狙われてしまい、最後は自害したというのが一般的な歴史となっています。
が、実はその義経が、モンゴルに逃げ延びてチンギス・ハンを名乗り大帝国を作ったとされているのです。
そしてこの説を一番最初に説いたのが、江戸時代に日本にやってきたドイツ人医師のシーボルトです。
シーボルトは、医師でありながら民俗学に至るまでの幅広い知識を持っていたことから、モンゴル帝国にまつわる大陸ならではの情報を握っていたに違いないといわれているのです。
同一人物説を裏付ける証拠としては、
・年代、背格好、お酒が苦手なことが共通点
・当時のモンゴルでは小型の弓が主流なのに、大型の弓を使った(日本では大型の弓が主流)
・チンギス・ハンは歴史上偉大な人物にも関わらず、実は前半生が不明
・義経は「九郎義経」の別名もあり、またチンギス・ハンも「クロー」の別名があった
・幼少の頃から父のように慕っていた藤原秀衡の影響で、大陸の文化を知っていたはず
と、いうことが浮上してくるのです。
もしかしたら源義経はなんとチンギス・ハンなのかも知れません。(・∀・)
でも義経のばあい、ちゃんとお墓が神奈川県の藤沢にあり、首を頼朝が確認しています。
流石に自分の兄弟の顔ぐらいわかるはずだということで、一般的にこの「チンギス・ハン、源義経だった説」はデマだということになっています。
でもおもしろい話ですよね。
まとめ
ということで、
チンギス・ハンを5分で!源義経と同一人物説って?でした。
チンギス・ハンをかんたんに語るポイントは、
・モンゴル帝国を作った偉大なスーパーヒーロー
・人生の前半は、トラブル続きだった
・世界征服を夢見ためっちゃハングリー精神の持ち主
・もしかすると、源義経と同一人物かも?
最後まで読んでいただきありがとうございます^^