藤原定家(ふじわらのさだいえ)と、いえば百人一首があまりにも有名です。
和歌のプロフェッショナルでありながら、荒々しい情熱的な性格だったとされています。
今回、藤原定家のかんたんな経歴、百人一首の代表作の意味について紹介していきますよ。
藤原定家、プロフィール
名前: 藤原定家(ふじわらのさだいえ)
出身地:不明
生誕:1162年
死没:1241年9月26日
享年:79歳(死因・不明)
時代:平安時代末期から鎌倉時代初期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
1162年に藤原定家は、歌人で朝廷に仕える貴族の藤原俊成(ふじわらのとしなり)の二男として生まれました。
幼少期より父の熱心な指導を受けながら、歌人としての才能を伸ばします。
定家が18歳の頃に、平安時代の終わりを告げる「源平の戦い」が起こりました。
その動乱の世をしりめに、クールな立ち位置で、「世間では、平家を追い払えなんて言ってるけど、そんな事はどうでも良い!」と書いた日記が見つかっています。
どうやら和歌中心の生活が何よりも第一であり、それ以外は目に入らなかったようです。
そんな定家を父は誇りに思い、その天性の才能に惚れ惚れしたのでした。
勝手なイメージですが、和歌のプロフェッショナルとあれば、その人柄は礼儀正しく温厚な人を想像してしまいますが、定家は荒々しい情熱的な一面を合わせ持つ人でした。
宮中での勤務中に侮辱されたことで相手に暴力を振るっています。
そして詠んだ歌は全て難しすぎると批判を浴び続けながらも、屈することなくひたすら和歌へ情熱を燃やしを突き進むのでした。
そして後鳥羽上皇にその才能を評価され新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)の編集を任命されます。
しかしこの和歌を選ぶ際に後鳥羽上皇と定家は揉めに揉め、後鳥羽上皇の怒りがピークに達した所で謹慎処分を受けるのでした。
しかし、その後に後鳥羽上皇は島流しに処され定家の謹慎は無くなり、「源氏物語」や「土佐日記」などの文学作品を後世に残すためにコピー(手書き)をひたすら続けたのでした。
その頃の定家は和歌を作ることよりも、若手の歌人の指導や添削をメインに活動しています。
そして75歳で、これまでの集大成ともいうべく、百人一首の選定を始めます。
百人一首は、飛鳥時代の天智天皇を始めとし鎌倉時代の順徳院までの100人の歌人から1首ずつ選び作った歌かるたです。
現代版のコンピレーションアルバムというところです。
詠まれているのは、切ない恋の歌や、世の無情さ、そして季節や日常の生活に至るまでの幅広いテーマがもとになっています。
そしてその感性や想いは現代にも通じるものばかりなのです。
百人一首の代表作の意味は?
藤原定家の作った「小倉百人一首」は、武士で歌人の宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)に頼まれたことがきっかけでした。
頼綱は、定家の息子である藤原為家(ふじわら の ためいえ)のお舅さんです。
襖の障子に貼る色紙を頼まれて、和歌を書いた色紙を送ったのが元となっています。
そのアイディアは、とってもお洒落で、和歌を愛する定家ならではです。
そして、その百人一首の中には自分の作品もちゃっかり選んで載せ、代表作品となっています。
その歌は、
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
(こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みもこがれつつ)
です。
現代の言葉で言うならば、「松帆の海岸で、夕方に焼かれる藻塩みたいに、愛しい彼を待っている私の心も恋い焦がれているのよ」といったところでしょうか。
この歌は、瀬戸内海に面した淡路島の松帆の浦海岸を舞台に詠まれた若い女性目線で作ったなんとも切ない恋の歌です。
まとめ
歌人である藤原定家は、世の動乱に脇目も振らずに、和歌中心の生活を送っていました。
和歌のことであれば、例え相手が天皇でも怯まずに堂々と意見を言っちゃう辺りはさすがプロフェッショナルです。
みんなに親しまれ愛される百人一首の他にも「源氏物語」や「土佐日記」の手書きコピーを作ってくれたなんて感謝でしかありません。
ということで、
5分で藤原定家について!百人一首の代表作の意味は?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^