新井白石(あらいはくせき)といえば、江戸幕府の重要な役職につき、有名な「正徳の治」を中心とする改革を試みた人です。
今回、新井白石のかんたんな経歴、七転び八起きの人生についてとそのエピソードを紹介します。
新井白石(あらいはくせき)
出身地:江戸
生誕:明暦3年2月10日(1657年3月24日)
死没:享保10年5月19日(1725年6月29日)
享年:67歳
時代:江戸時代中期
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
1657年、新井白石は、旗本(武士)の家に生まれました。
白石は、役職をもたない旗本としては珍しく、幕府の高い地位にまで上り詰めました。
この出世は、歴史的にもほとんど例をみない凄いことなのです。
幼い頃から学問に分野において非凡な才能を発揮し、最終的には朱子学や言語学、文学などを修め、地理や歴史にも精通していたそうです。
また、詩人でもあり、自作の漢詩も多く伝わっています。
江戸幕府の要職についた新井白石は、5代将軍・徳川綱吉の政治をくつがえそうとしました。
徳川綱吉が作った「お犬様を大切に!」の「生類憐れみの令」の廃止。
インフレ気味だった市場をなんとか緩和させようとした「正徳の治」が有名です。
「生類憐みの令」は、すべての生き物の殺生を禁止する令ですね。
犬、猫、魚だけにとどまらず、蚊も殺してはいけないというきまりだったのです。
これは人間の命が危うくなるような悪法といわれていて、大不評。そもそも地方ではほとんど守られていなかったようです。
綱吉は自分の死後も、「生類憐みの令」を残してほしいと側近に頼んで亡くなったのですが、新井白石が中心となって、速攻で廃止したのでした。
廃止された時、みんなホッとしたみたいだから、その決断の早さが国民を救った感じですよね。
その後、まず新井白石はインフレを緩和させるべく金融政策に走ります。
「正徳の治」といい、正式な呼び方は「正徳の貨幣改鋳」です。
これは綱吉の時代に、経済状況を圧迫するとして、貨幣に使う金や銀の含有量を一気に減らしたものを、元に戻した政策でした。
今の世に通じるものなんですが、貨幣に使う金銀の含有率を下げることで大量に出回った貨幣は、その価値を下げてしまいインフレを引き起こします。
インフレが起こると市場だけではなく、産出量を減らすと金山や銀山の経営も困難になりますし、流通量が減ると今でいう運送会社的な仕事も減るので貨幣価値が下がると経済的な打撃が大きくなりますよね。
貨幣価値が下がると物価が上がるので不景気の原因にもなります。
これはマズイ!と新井白石は貨幣に使う金銀の量をもう一度元に戻して、バランスを取ろうとしました。
彼は急速に行うのではなく、前の貨幣の回収と新しい貨幣の流通には時間をかけるようにしましたが、結果的にはインフレ状態から脱出した代わりに今度はデフレを引き起こしてしまいました。
これ以外にも、年貢を増やしたり、朝鮮から来る通信史(今の外交官みたいなイメージ)の接待にかかる費用が半端なかったので、これも節約します。
でも経済成長が止まっちゃっているのに税金だけ増やされても国民は苦しくなるばかりでした。
幕府のお金の使い方を正したかったのに、贅沢だけが楽しみな内部からの反対にあい、失敗してしまいました。
新井白石の考えた政策は、現代でも一定の評価を得ています。
ただ、その徹底しすぎた政策の効果はあまり得られず、最終的には周囲の反感を買ってしまうんですが、学者としての才能は非凡で、その先見性の高さがうかがい知れる有名な著書をたくさん残しています。
彼は幕府の政治に深くかかわりましたが、本来の性質はきっと政治家ではなくて学者気質だったんですね。
七転び八起きな、波乱万丈の人生
新井白石の人生は苦労だらけで、まさに七転び八起きです。
生まれたのは、「明暦の大火」と呼ばれる、江戸中を燃やし尽くした大火事の翌日。
しかも家を焼け出されて避難先で誕生しています。
この時点からすでにハードな人生が予感される生い立ちですね。
新井白石のお父さんは土屋利直という藩主に仕えていました。
利直が亡くなった後に藩主を継いだ「土屋直樹」という人の、頭がオカシイ振る舞いを目の当たりにして、今でいう無断欠勤的な行為に出ます。
結果、まぁ当たり前なんですけど父はクビになります。
一家の大黒柱がクビになって、もともと中小企業勤めという感じで、それでも「武士は食わなど高楊枝(見栄っ張り)」。
いろんな出費はかさむので、たいした蓄えもなかった新井家は貧困生活に陥ります。
貧困の中でも白石少年は儒学や史学を中心に勉強を怠りません。
しばらくすると、土屋直樹はちゃんと頭オカシイ認定され、晴れて新井白石も大企業的存在の大老、堀田正俊に仕えることが出来るのです。
しかし、ここでまたトラブル発生。
なんと、その主君・堀田正俊が、こともあろうか殿中で刺し殺されます。
もう勤め先の社長が刺殺されるとか、たまったもんじゃないです。
堀田正俊が刺殺されたことで、堀田家は財政悪化。
またも困窮生活に陥ることが目に見えていたのでしょうか。新井白石は自分から勤務するのをやめて、ニートもといフリーランスになります。
どんな苦しい状況でも、新井白石は勉強することをやめませんでした。
そのうちに、彼の先生に当たる人の紹介で、幕府の中枢部に職を得、数々の改革を打ち出していくのです。
失脚したあとも、それまでの人生で培った根性で学者としても大成しました。まさに転んでもただでは起きない人です。
貧困生活と、仕事運のなさ、それに何より勉学への情熱が彼の七転び八起きの人生につながったんでしょうね。
おもしろエピソードはある?
新井白石の、その人となりをすぐに理解できるエピソードはいくつも伝わっています。
知能の高さエピソードとしては、たった3歳でお父さんの読んでいた儒学の本をそっくり書き写しちゃった、というものがあります。
マジかよ、ていうか3歳でそもそも文字書けるのかよ、ってびっくりしますよね。
また、性格的には火のように気性が激しくて、怒ると眉間に火の字の形をした皺ができたそうです。
頭が良くて激烈な性格をした新井白石を、子供の頃、その藩主土屋利直は「火の子」と呼んで可愛がっていたそうです。
貧困生活を送った経歴から、倹約家として経済観念が発達していた新井白石。
実は、超やり手の豪商から、お金持ちのお嫁さん候補を紹介されたこともあるのです。
が、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを出して断ったのだとか。
小さな借りも時が経てば大きくなる、だから金目当ての結婚なんてしないぞ!っていう宣言ですね。
人に借りを作らない、清廉な人柄もうかがえるエピソードです。
最後にもうひとつ、きついあだ名もご紹介しておきます。
改革に関してはやりすぎ感の強い新井白石は、徹底した理想主義者で、自分の主義主張は絶対に曲げない人でした。
そのため、自分にも厳しく一本筋の通ったいい男だったんですが、他人にも厳しすぎて「鬼」って言われていたそうです。
火の子とか鬼とか、あだ名だけでどんな人だったのかすぐに想像できちゃうエピソードですね。
こういう男って損するけど格好良いなって気がします。
まとめ
新井白石の行った「正徳の治」は賛否両論あり、結果的にはあまり効果を出せなかったともいわれています。
でも、江戸時代の中で、一番経済的にも文化的にも発展したといわれる元禄の世。
変わり行く貨幣価値を操作したり、あるいは無駄な贅沢を省いて節約に励もうとした政策は非常に先見性の高いもので現代の金融や経済政策にも通じるものがあり、一定の評価を得ています。
また、詩人や作家としての才能もあり、現代に残る著書も彼の高い知識を今の世に知らしめてくれます。
彼の過ごした七転び八起きの人生は、不景気の世に生きるわたしたちにも、諦めなければ違う道も見えてくる、というような明るい希望の光を与えてくれるように感じさせてくれますね。
ということで、
5分で新井白石を知る!七転び八起きの人生だった?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^