天草四郎(あまくさしろう)といえば、襟巻にマントというファッションスタイルで、島原の乱のリーダーとして活躍したイケメンの少年です。
今回は天草四郎のかんたんな経歴、三輪明宏さんの前世って?について紹介していきますよ。
天草四郎、プロフィール
名前:益田四郎(ますだしろう)
:天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)洗礼名:当初・ジェロニモ
:島原の乱当時・フランシスコ出身地:肥後(現在の熊本県
)
生誕:1621年
死没:1638年4月12日
享年:17歳(斬首)
時代:江戸時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
天草四郎は、1621年に天草諸島の大矢野島(現・熊本県上天草市)に生まれました。
父は益田甚兵衛(洗礼名:ペイトロ)で、母は千束善右衛門・妹(洗礼名:マルタ)です。
兄弟は、姉の福、2人のつると万がいました。
当時の天草地方は、悪天候のせいで農作物の不作が続き食糧を収穫できない事態が続いていました。
しかし幕府から年貢(税金)の取り立ては相変わらず行われ民衆は皆苦しい状況にいました。
またその頃の徳川政権は、キリスト教信者が偉大な力を持つことで、幕府と対立するのを避けようとキリスト教を禁止します。
無謀な年貢の取り立てとキリスト教の禁止の二つが、民衆の大きな不満となり、日本の歴史上最大規模と言われる「島原の乱」へと発展したのです。
その「島原の乱」で幕府軍と戦った民衆側のリーダーが天草四郎でした。
若くてイケメンのリーダーに、民衆はみんな我先にとついて行き、その数は37,000になったとも言われています。
残念ながら、天草四郎率いる民衆は長い籠城戦の末に散る事となり、そして四郎は晒し首とされました。
島原の乱の2年後から、200年以上もの長きに渡り外交を絶った日本の鎖国制度は、世界文化から遅れをとった要因の一つでもあります。
また幕府が更にキリスト教を厳しく禁じたために隠れキリシタンが生まれました。
そして、農民の一揆を軽く捉えていた幕府軍からすれば、民衆の団結、信者の総意そして地方政治の難しさを痛感し脅威を覚えたことでしょう。
戦の世を終わらせ、安泰を築き上げ、全国を統一し始めた徳川政権に抵抗した天草四郎は、その後の日本に大きな影響を与えたと言っても過言ではないのです。
人物エピソードは?
天草四郎は、経済的に裕福なセレブ家庭に育ち高い教養を身に付けていました。
幼い頃から熱心にキリスト教を勉強していたというエピソードには驚きです。
肖像画で見る珍しい襟は、襞襟(ひだえり)と呼ばれ、中世ヨーロッパのセレブな人々に好まれたファッションです。日本には戦国時代に入ってきました。
襞襟をいち早く取り入れた四郎は、当時の日本にはない、自由と平和そして人々の平等を政府に訴えた、300年以上未来の価値観とファッションセンスを持った勇敢なイケメンだったといえます。
美輪明宏の前世ってほんと?
皆さん、前世って信じますか?
なんと、シャンソン歌手でインパクトのある黄色のヘアスタイルでお馴染みの三輪明宏さんの7前世が天草四郎らしいのです。
画像・美輪明宏
何人かの霊能者の方々、そして三輪さんご自身も仰っているようです。
輪廻思想の考えには、前世からの縁(好物・住んだ場所・職業・しぐさ・趣味など)は、現世そして後世へと引き継ぐとされています。
三輪さんの生まれは長崎、天草四郎の生まれも長崎という説もあり、二人とも端整なルックスで人々を引き付けています。
そして三輪さんの黄色のヘアスタイルと、天草四郎の特徴的な襟巻きにマント姿は、インパクト抜群な事でも似ています。
と、するとやっぱり三輪さんの前世は天草四郎なのかもしれません。(・∀・)
まとめ
天草四郎についてかんたんに語るポイントは、
・江戸時代初期に起きた島原の乱の若きリーダー
・教養高きセレブなキリシタン
・天下泰平の世を治めた徳川幕府に脅威を与えたイケメン
・三輪明宏の前世らしい
ということで、
5分で!天草四郎ってどんな人物?美輪明宏の前世ってガチ?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^