空海(くうかい)と言えば、弘法大師の名前でも広く知られている仏教界の大スターです。
今回、空海のかんたんな経歴、同じく仏教界のスターである最澄との違いを、かんたんに紹介していきますよ。
空海、プロフィール

名前 空海(くうかい)
俗名 佐伯 眞魚(さえきのまお)出身地:讃岐国(現:香川県)
生誕:774年6月15日
死没:835年4月22日
享年:62歳(死因・不明)
時代:平安時代初期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
空海は、774年に讃岐国である現在の香川県に生まれました。
空海の家は地方豪族で、一般の家庭よりもリッチでした。
幼い頃から聡明な空海は、18歳になると長岡京(ながおかきょう)で猛勉強に励み、様々な教養を身に付けます。
ゆくゆくは、エリート官僚になることを目指して学んでいましたが、20歳頃に仏教の素晴らしさに魅了されエリート官僚の道から、一転仏教界へ進む事を決心したのでした。
各地を旅して更なる仏教の研究と勉強に取り組んでいた30歳の頃に、空海にとって願ってもない大チャンスが訪れます。
それは、遣唐使として唐(中国)に行くことでした。
そのメンバーには、あの最澄もいました。
最澄は、既に天皇からも認められたお坊さん、一方で空海は無名にも近い学生扱いで唐に行きました。
最澄との立場の差はあれども、空海も国を代表して行くのですから、それはもう凄いことだったのです。
早速、唐に行くと当時の最先端でもある「密教」を学びます。
この密教こそが後に空海をスーパースターにした学問でした。
当初は20年間の勉強期間を前提にしていましたが、空海はたった2年で、密教をマスターし日本に戻ります。
帰国当時、空海が言った言葉が「虚しく往きて実ちて帰る(むなしくいきてみちてかえる)」です。
現代語で言えば、「何も知らずに中国に行ってきたけど、メッチャ色々勉強して得るもの得てきちゃった」って感じです。
そして真言宗を開いたのでした。
空海の功績が認められ816年嵯峨天皇から高野山をプレゼントされると修行の場として金剛峯寺を建てます。
その後は、宗教の活動はもちろんのこと、満濃池(まんのういけ)の土木修理工事や庶民が学べる綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を作りと人との関わりの中で皆が喜ぶ事を成し遂げて行くのでした。
また「弘法にも筆のあやまり」ということわざがあるように、当時の字の上手な一人となっています。現存する空海の筆跡は国宝にも指定されています。
病気がちになった空海は、62歳で生涯を終えるまでの間、これまでにないほどに真言宗の強化に力を注ぎました。
921年に、空海の功績が認められ醍醐天皇より後世で親しまれる「弘法大師」の名前がプレゼントされました。
最澄の仏教との違いって?
空海と最澄との仏教の違いはなんなのでしょうか。
空海が弘法大師(こうぼうだいし)の名前で有名であるにも関わらず、最澄の伝教大師はあまり聞きなれません。
空海の真言宗と最澄の天台宗の違いは、ズバリ密教です。
密教は、空海が唐で学んだ当時最新の学問でした。
最澄も、同じく唐で学びましたが勉強期間が1年と限られていた為に、空海のように密教を全マスター出来ずに、天台宗には少しだけしか密教を盛り込む事ができませんでした。
最澄は、比叡山にこもり修行を積み重ねることで人々の役に立つ天台宗を開き、空海は人々との触れ合いのなかで役に立つ真言宗を開いたのでした。
最澄は、どんなに立派な修行を重ねていても、その修行の姿は人々の目に触れることは少なく、一方で空海の土木工事や学校設立は人々から注目を浴び感謝されるのでした。
最澄といえば、空海とよく比較される仏教界のスターで、出世は空海よりも早かったですね。
こちらの記事で最澄について、かんたんにわかり易く紹介しています。
>>>5分で最澄を知る!仏教で日本に与えた影響、空海との違いについて
まとめ
空海の名は知らずとも、弘法大師なら知っている方も多いのではないでしょうか?
空海は真言宗を開いただけでなく、字も上手で土木工事や学校設立も行っていたマルチな才能には敬服しちゃいます。
1000年の時を超えても信仰を集める真言宗の魅力は正に空海自身の魅力とも言えそうです。
ということで、
5分で空海について!最澄の仏教との違いって?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^
