黒田長政(くろだながまさ)といえば、あの黒田官兵衛の息子で父に負けず劣らずの知将であったと言われています。
関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍につき、知略をもって大きな戦功をあげました。
今回、黒田長政のかんたんな経歴、なぜ兜や甲冑が変わった形なのか、紹介していきますよ。
黒田長政、プロフィール
黒田長政(くろだ ながまさ)
出身地 兵庫県
生誕 1568年12月21日
死没 1623年8月29日
享年 56歳
時代 安土桃山時代-江戸時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
黒田長政は、あの有名な黒田官兵衛の嫡男として姫路城で生まれました。
幼少の頃、父親が織田信長を裏切ったという疑惑が噴出し、人質となっていた長政は処刑されそうになるなどの戦国ならではの九死に一生を体験します。
でも父親と共に羽柴秀吉に仕え、「備中高松城の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」で武勲を上げるなど活躍していきます。
父親である黒田官兵衛が隠居し、家督を相続します。
朝鮮出兵では、負傷するも朝鮮軍を破り平壌城(北朝鮮の首都)を占領しました。
豊臣秀吉が死去すると、石田三成と対立したので、徳川家康に従い関ヶ原の戦いでは東軍の切り込み隊長として大活躍しました。
東軍に寝返ったことで有名な小早川秀秋に交渉を持ちかけたのは黒田長政だったと言われており、頭もよい武将だったのです。
関ヶ原の戦い一番の功労者として、家康から御感状をもらうほどでした。
黒田長政は熟考する性格で父親には優柔不断だと思われ注意されたと言われています。
深くしっかり考えるからこそ、戦や交渉で活躍できたのでしょう。
関ヶ原の戦いの後、敗将である石田三成に着ていた羽織をかけてあげるなど礼節を重んじていた人物でもあったようです。
戦国時代の武将は、結構ぶっ飛んでいる人が多いので、このような礼儀正しい人は珍しいですね。
なぜ兜や甲冑が変わった形をしてる?
黒田長政の兜は変わった形をしているですが、なぜなのでしょうか。
これですね。
兜は「水牛脇立て桃形兜」といって、兜の両横から水牛の角が長く天にそびえてるものです。
自分の個性をアピールするにはうってつけの兜。
力に自信があったから、このど派手なデザインの兜をかぶっていたのでしょう。
「水牛脇立て桃形兜」以外にも「一の谷の兜」という頭に四角いものが乗っているような兜も有名です。
これです。
上に紹介しているプロフィールの肖像画がこの兜ですよね。
これは、竹中半兵衛の兜だったものです。父親の黒田官兵衛と「二兵衛」と言われていた凄い人です。
竹中半兵衛には、幼少期に処刑されそうだったピンチを救ってもらっているのでその恩を感じているのでしょう。
関ヶ原の戦いで黒田長政は、この一の谷の兜を被って戦ったそうです。
どっちもインパクトがありますよね。(・∀・)
まとめ
偉大な父親黒田官兵衛と共に戦国を駆け回った黒田長政。
織田信長、豊臣秀吉。徳川家康など天下人に仕えていましたが、長政自身は自分で軍を率いて戦うことを望んでいたそうです。
やはり戦国時代の武士なので野心は大きかったのでしょう。
家臣たちと「異見会」という腹を立てずにお互いの意見を言い合う会を月に一度行い、自分の欠点を自覚することも行っていたので、戦国時代には珍しく柔軟な思考を持った武士だったのでしょう。
ということで、
5分で黒田長政について!なぜ兜や甲冑が変わった形?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^