支倉常長(はせくらつねなが)といえば、伊達政宗がヨーロッパに送った「慶長遣欧使節団(けいちょうけんおうしせつだん)」のリーダーとして有名です。
今回、支倉常長のかんたんな経歴、子孫がスペイン人?についてご紹介します。
支倉常長、プロフィール
名前 支倉常長(はせくら つねなが)、
洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ出身地:羽州置賜郡(現・山形県米沢市)
生誕:1571年
死没:1622年8月7日
享年:52歳(病没)
時代:安土桃山時代 – 江戸時代前期
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
1571年に羽州置賜郡(現・山形県米沢市)に生まれました。
山口常成の子として生まれますが、7歳の時に伯父の支倉時正の養子になり支倉常長となります。
1613年、伊達政宗の命令により支倉常長は慶長遣欧使節団のリーダーとして、180名の仲間と共にスペインとローマを目指します。
慶長遣欧使節団の目的は2つありました。
一つは、スペイン国王にメキシコとの貿易の許しを得る事。
もう一つは、仙台藩におけるキリスト教布教のために宣教師の派遣を、ローマ教王にお願いするものでした。
政宗の野望は太平洋に面している仙台藩を、海外貿易の拠点とし、貿易によって発展していく日本を理想として、その発展にはキリスト教が必要と思ったのかもしれません。
そんな思いをこめて、政宗は家康にしっかりと根回しをした上での慶長遣欧使節団だったのですが・・・、支倉常長たちが日本を旅立った翌年に、家康は全国にキリスト教禁止命令を出すのでした。
その一方で支倉常長たちは、メキシコ、そしてスペインへと辿り、やっとスペイン国王へ会うこと出来ます。
しかし、貿易に対する良い返事を貰うことが出来ずに、8ヶ月もの間交渉のために滞在します。
このままでは交渉が進まないと判断した支倉常長たちは、今度はローマ教皇の元へ貿易に対する力を貸して欲しい旨をお願いにローマに行くのでした。
ローマでは、支倉常長ら8人がローマの市民権を得て、貴族の身分をもらうほどの熱烈な歓迎を受けました。
ローマ教皇からは、宣教師の派遣に対して良い返事をもらった常長らは、再度スペインを訪れ、貿易の交渉をするも今度は滞在すら許して貰えずに、日本へ帰国するのでした。
常長らが日本へ戻った時はすでにキリスト教は禁じられており、常長らの慶長遣欧使節団は歴史の闇に埋もれてしまうのでした。
彼らの功績が発見されたのは、明治政府によりヨーロッパに渡った岩倉具視によるものです。
それまでの250年もの間、日本で知られることはなかったのです。
当時、世界のあちこちを植民地支配していた大国スペインに対し、貿易交渉を堂々と行った支倉常長は明治以降ようやく日本でも知られることとなったのです。
子孫がスペイン人なの?
支倉常長の子孫がスペイン人説について。
スペインのコリア・デル・リオという町にハポン(スペイン語で日本)という苗字を持つ人が約800人いるとされています。
現地の記録によると、慶長遣欧使節団が訪れる以前にその苗字は存在しておらず、ハポンを名乗る人は慶長遣欧使節団の訪れた後だということが分かっているとの事・・・。
彼らの祖先は慶長遣欧使節団に違いない!と思われるですが、その祖先が支倉常長である可能性は極めて低いようなのです。
その理由は、支倉常長は日本に帰国している記録があるからです。
慶長遣欧使節団の名簿によると13名の日本人が帰国していないことがわかります。
すでに日本では、キリスト教が禁止されていたことから、戻るに戻れないと判断した者も居たようでした。
現在のスペインにいるハポンを名乗る人々は、慶長遣欧使節団の13人の子孫なのかもしれません。
まとめ
ということで、
5分で支倉常長について!子孫がスペイン人って?でした。
支倉常長をかんたんに語るポイントは、
・支倉常長率いる慶長遣欧使節団は政宗の野望を秘めていた!
・支倉常長ら慶長遣欧使節団の活躍は250年間歴史の闇に閉ざされていた!
・400年前にローマの市民権を得ていた!
・スペインにいる日本人の子孫は支倉常長の子孫ではなさそうだ!
最後まで読んでいただきありがとうございます^^