大石良雄(おおいしよしお)いえば、あまりにも有名な赤穂浪士のリーダーです。
通称・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)といえば「聞いたことある!」という方が多いのではないでしょうか。
今回、大石良雄のかんたんな経歴、通称名「内蔵助」の謎、ちょっと変な長男の名前の不思議を紹介していきますよ。
大石良雄、プロフィール
大石良雄(おおいしよしお)
出身地:播磨(現在の兵庫県)
生誕:1659年(万治2年)4月24日
死没:1703年(元禄16年)2月4日
享年:45歳
時代:江戸時代前期 – 中期
何した人?どんな人?
大石良雄は赤穂藩(兵庫県)に仕える家臣でした。
「赤穂事件」と呼ばれる一連の敵討ちは、歌舞伎の演劇で「忠臣蔵」として上演され、一躍有名になったのです。
ここでは、大石良雄のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
1659年、大石良雄は今の兵庫県にある赤穂藩家老の家に生まれました。
父親を早く亡くした彼は、祖父の養子に入るという変わった経歴をもっています。
その祖父も大石良雄が19歳の時に亡くなり、21歳の若さで赤穂藩の筆頭家老、現代風に言えば家来達のリーダーとなりました。
大石良雄は歌舞伎の演劇「忠臣蔵」のイメージで、主君に忠実でリーダーとしても優秀な人間だったと思われがちです。
が、普段はどちらかというとボーッとしていて、そのぼんやり加減から「昼行燈(ひるあんどん)」と揶揄されていたほどでした。
結婚して子供が何人も生まれ、平和な江戸時代にのほほんと暮らしていた大石良雄を変えたのが、主君の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の刃傷事件だったのです。
1701年3月14日に起きたこの事件は、襲われた吉良上野介(きらこうずけのすけ)のほうが怨みを買うようなことをしていた、といわれています。
しかし、事を起こした場所が江戸城で、タイミングが朝廷からの使いを迎えて儀式を行うという時で、間が悪すぎて将軍綱吉は猛烈に怒ってしまいました。
綱吉は怒りまくって浅野内匠頭に切腹、彼の藩である赤穂藩は取り潰されることになります。
しかし、おそわれた吉良上野介には全くなんのお咎めもなし。
本当は吉良上野介が悪いのに、と赤穂藩の家臣達はみんな思ったことでしょう。
主君が事件を起こして切腹したあと、赤穂に残された家臣達は、
・あまりにも厳しい処置を下した将軍、そして幕府に反発をおぼえたので赤穂城に立て籠もって殉死する派
・城を明け渡して浅野長矩の弟を立て浅野家再興を嘆願する派
の二派に分裂し、藩政がままならない状況に陥っていました。
その中で、大石良雄は赤穂の経済の混乱を避け、二つの派閥をうまく取りまとめて、これ以上の騒ぎにならないよう危機を回避します。
その処置は「昼行燈」と呼ばれていたことが信じられないほど的確でした。
家老達の派閥のうち「籠城派」は激昂し、やがて「吉良上野介の首を取れ!敵討ちでござる!討ち入りでござる!」派へと発展してしまいます。
穏健派である「浅野家再興派」も大石良雄の努力もあって、一時期は勢いをつけるのですが、しばらく時間を置いているうちに、どうも浅野家再興は望みが薄いという噂が流れ、今度は「討ち入り派」の天下となってしまいました。
実際に浅野家を再興させるのは難しく、大石良雄はのらりくらりと時間を稼いでいたのですが、最終的に「討ち入り派」を抑えきれず赤穂事件を起こすことになるのです。
討ち入りの少し前、大石良雄は遊びほうけた生活を送っていました。
歌舞伎の演劇・忠臣蔵では敵討ちの疑いをかけられぬよう目を欺くため、といわれていますが、実際のところは優柔不断で、また遊び好きでもあったので単純に楽しんでいたのではないか、など結構ゆるい人だった説もあります。
大石良雄は、討ち入りを果たした2年後、1703年3月20日に切腹していますが、吉良上野介の首を取っただけではなく、切腹した同じ日に吉良家の領地没収も決定しており、さらには主君と同じお寺に葬られたため、討ち入りは成功した、といわれているのです。
通称名や長男の名前がへん?
一般的に大石良雄は「大石内蔵助(おおいしくらのすけ)」という通称名で知られています。
「内蔵助」の名前は、彼の祖父が亡くなった時に石高(財産)と一緒に継いだそうです。
なんで「内」という漢字を読まずに「くらのすけ」という読み方なのでしょうか。
実は、最年少で討ち入りに参加した大石良雄の長男も、大石主税(おおいしちから)といいます。
えっそれ「ちから」って読む?親子揃ってキラキラネームなの!?と突っ込みたくなりますが、ちゃんと由来があるんです。
もともと、武士の名前には律令制で定められた朝廷の官職名をつけることが多く、「内蔵助」も「主税」もその役職名からとった名前でした。
律令制は奈良時代に制定されたものなので、現代人の感覚だと「なんでなの?」ってなる読み方も多いんですね。
まとめ
歌舞伎の演劇「忠臣蔵」で一躍有名になった大石良雄ですが、赤穂事件が起きるまでは結構凡庸なイメージの方でした。
事件のあと、歴史を重ねて何度も物語として演じられているうちに作られた大石良雄は、本来の性格とは別の性質をもつヒーローになったのかもしれません。
元の性格は、ゆるふわっぽい雰囲気なんですが人間らしい味があって、普段はゆるいけどやる時はやるぜ、っていうのがカッコ良い気がしますね。
ということで、
5分で大石良雄を知る!通称名や長男の名前がへん?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^