塙保己一(はなわほきいち)といえば、江戸時代の国学者ですね。
誰?と言っていう人も、ヘレンケラーなら知っているでしょう。
塙保己一は、ヘレンケラーが「塙先生のことを知ったおかげで障害を克服することができた」と感謝の言葉を述べるほどヘレンケラーに影響を与えた人物なのです。
今回、塙保己一のかんたんな経歴、ヘレン・ケラーの恩人って?について、紹介していきますよ。
塙保己一、プロフィール
塙保己一 (はなわ ほきいち)
出生地 武州児玉郡保木野村(埼玉県)
生誕 1746年6月23日
死没 1821年10月7日
享年 76歳
時代 江戸時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
塙保己一は、武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県)で生まれた百姓の子です。
幼少から病弱だった塙保己一は、5歳の時に病を患ったのが原因で、7歳の時に失明しました。
修験者に名前と生まれ年を変えたら目が治ると言われ、名や生まれ年を変えましたが視力は戻らず、手のひらに指で字を書いてもらい文字を覚えました。
15歳で江戸に行き、17歳で盲人の職業団体である「雨富須賀一検校」に入門しました。
雨富検校で、国学や和歌、漢詩や法律、医学など様々な学問を学ぶと、37歳で「検校」と言われる盲人の役職の最高位となりました。
そして塙保己一は、有名な古典全集を編集した「群書類従」を刊行しています。
これは簡単にいうと、日本の古い貴重な文書が焼けたり紛失したりしても後世に伝えられるように全集として印刷することです。
古代から江戸時代初期までの史書や文学作品、計1273種を編集していて国文学や歴史学などの研究に現在も多大な貢献をしています。
四十年近くの歳月をかけて完成した群書類従は、現在日本の重要文化財に指定されています。
ヘレンケラーの恩人って?
ヘレンケラーとは、アメリカ合衆国の社会福祉活動家であり視覚・聴覚の重複障害者です。
彼女も2歳の時に病を患ったせいで視覚と聴覚を失いました。
見ることも出来ず、聞くことも出来ず、話すことも出来なくて生きることに絶望していた時に母から「塙保己一を手本にしなさい」と言われ目標としていました。
彼が盲目ながら不屈の精神で生き、努力を積み重ねて行った偉業が彼女に生きる力を与えてくれたのです。
1937年に初めて来日したヘレンケラーは、塙保己一の学問を継ぐ研究所である温故学会を訪問し「私は塙先生を知ったおかげで障害を克服することが出来ました」と塙保己一の像や使用した机に触れて感謝の言葉を述べたそうです。
目が見えることが不自由?
彼が、弟子たちを集めて講義を行っているときのことでした。
日が落ち、辺りは真っ暗。ろうそくを灯して講義をしていました。
途中で、ろうそく炎が消えました。弟子たちは何も見えません。
弟子たちが慌てているのを知ると、「目が見えるということは不自由なものだ」と冗談を言ったといいます。
なんとも貫禄と余裕がある、かっこいい名言ですね。
まとめ
塙保己一は、記憶力がよく所蔵していた六万冊の本をすべて記憶していたと言われています。
集中力を高めるために般若心経を毎日唱えるなど障害を理由にせず努力を積み重ねる人だったのです。
2010年より塙保己一賞という努力をして社会的に活躍している障害を持っている人や障害を持っている人のために様々な貢献をしている人を表彰する事業が埼玉県で行われています。
私たちも塙保己一を見習い、何かを理由にして諦める前に不屈の努力で何事にも取り組みたいですね。
ということで、
5分で塙保己一を知る!ヘレンケラーの恩人って?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^