島左近(しまさこん)といえば、とてもミステリアスな武将のひとりです。
今回、島左近のかんたんな経歴と、この度見つかった直筆の書状について、現代まで子孫は続いているのかについて、紹介していきますよ。
島左近、プロフィール
島左近(しまさこん)
出身地:大和国平群群(現・奈良県生駒郡平群周辺)
生誕:1540年5月5日ごろ
死没:1600年10月21日
享年:60歳(黒田長政率いる鉄砲隊によって負傷したことによる銃殺)
時代:室町時代(戦国時代)‐安土桃山時代
何した人?どんな人?
島左近は、猛将としてその名を日本全国に轟かせていたといいますが、けっこうなミステリアス武将なのです。
なぜ石田三成のものに付いたのでしょうか。気になりますよね。
ここでは、島左近のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
島左近の誕生は、不明な点がおおいですが、椿井城・西宮城(奈良県)を本拠地とする島家の子として誕生したとされています。
あとは、父が島政勝(しままさかつ)であるということ以外は不明となっています。
島左近という名は通称であることが明らかとなり、本名は島清興(しまきよおき)と言います。
島左近は、筒井順慶(つついじゅんけい)の家臣として仕えていました。
数々の功績を重ねてきた島左近は、筒井順慶の重臣となり、「信貴山城の戦い」にて、松永久秀(まつなが ひさひで)を倒す大活躍をみせます。
しかし、筒井順慶の死後、筒井家を継いだ筒井定次(つついさだつぐ)の、悪逆非道な政治に絶望し、島左近は筒井城から姿を消します。
そして近江(滋賀県)へと渡り、浪人生活を送っていました。
彼が浪人生活を送っているあいだ、多くの人々が彼のもとを訪れ、士官を求めました。
そのなかでも特に熱心だったのが石田三成です。
三成は、全力で島左近を口説き、三成自身の4万石のうち、半分の2万石をも島左近へ召し出したという逸話も残っています。
それほど惚れ込んでいたのです。
なぜ、そこまでして石田三成は、島左近を欲しがったのでしょう。
石田三成といえば、官僚としての才能は素晴らしいのですが、軍事面ではいまひとつな点を持つ残念な武将として知られています。
自身もそう感じていたようで、給料の半分を支払ってでも武勇と軍略に長けた島左近を、家臣として招きたい人物だったのです。
しかし、島左近の軍略はことごとく石田三成に邪魔されます。
とっても可愛そうな軍師とも呼ばれています。
たとえば、豊臣秀吉が死んだあとのこと。
次に天下を狙うべく徳川家康がグイグイきていました。
そこで、島左近は、「家康がキテる。ヤバイ。」と警戒し、三成に家康暗殺の計画を相談します。
しかし三成は「ダメだ。そんなの。」と受け入れません。
大義名分にのっとり、正々堂々と戦うことを主張し、暗殺を許しませんでした。
このとき左近は「正々堂々と戦っても徳川軍に勝つことはできない」と伝えたのですが、聞き入れてはもらえなかったと言います。
また「杭瀬川の戦い」では、兵500を率いて出陣し、見事東軍相手に勝利を収めたのです。
島左近は当然、この勢いで一気に東軍に攻め入りたいと考えます。
戦国最強として知られる島津義弘(しまづよしひろ)と共に、夜襲を提案します。
しかし、三成はまた「ダメだ」と。
経験豊富な軍略家2人のナイスな案は却下されてしまいました。
そして、ついに「関ヶ原の戦い」当日となり、島左近は東軍の軍勢と激突することになりました。
初めは西軍有利に進行していたのですが、島津・毛利・小早川が傍観姿勢を見せ始めると、西軍は劣勢へと傾き始めます。
やがて、左近は鉄砲隊の銃撃により負傷し、小早川の裏切りによって西軍の体制はボロボロに。
負傷しながらも、最期の最後まで三成のために戦に参戦した島左近は、とても立派だったとされています。
直筆の書状が見つかったって?
島左近の直筆の書状がみつかったという話について。
2016年7月1日。
なんと島左近自らが綴ったとされる、2通の書状が大阪府内で発見されたというのです。
東京大史料編纂所などより発表されました。
この2通の書状は、東京大史料編纂所の村井祐樹助教授が、2015年11月に大阪府内の民家で発見したとのこと。
長浜城歴史博物館の協力のもと分析が行われ、本物だと証明されたものです。
1通は、1590年7月19日付の書状であり、小貫頼久(おぬきよりひさ)に宛てられたもの。
内容は、秀吉に人質を出すのを渋る近隣大名への対応を相談したもの。
もう1通が、同25日付の書状。一族の佐竹義久(さたけよしひさ)に宛てられたもの。
内容は、佐竹に預けられていた織田信長の次男・信雄への対応をねぎらう内容となっています。
この2通の書状が発見されたことで、武勇と軍略だけではなく、石田三成が大の苦手としていた政治交渉という役目も担っていたことがうかがえます。
子孫は続いている?
島左近の子孫について。
島左近の子孫は、現在までつづいているとのこと。ちょっと紹介してみます。
関ヶ原の戦いによって命を落としたとされる西軍軍師の島左近ですが、実は関ヶ原の戦いでは戦死しておらず、京の都へと落ち延び、僧侶として余生を過ごしたのではないかと言われています。
有名な武将ほど、こうした生存説は必ず浮上するものですが、島左近の場合は少し異なります。
なぜなら、関ケ原の戦い後に彼がどのような生活を送っていたのかに関する書物が多数発見されているのです。
お墓や位牌も存在することから、関ヶ原の戦いを生き延びた可能性がとても高く、信憑性があると考えられています。
また、広島県東広島市西条にある蔵元「白牡丹株式会社」は、延宝3年創業の老舗酒造会社であり、広島県で最も古い歴史を持つとされています。
「白牡丹と島左近にどんな関係が?」と思われたかもしれませんが、発見された古書のなかにこのような記述があります。
「慶長五年九月 関ヶ原の戦に島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に敗れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正、母と共に京都に在りしが、関ケ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」
よくわかりませんね。(・∀・)
つまり要約すると、「白牡丹は島左近のお孫さんが創立し、今も尚、彼の子孫たちの手によって、広島県を代表する銘酒を造っている。」とのことなのです。
まとめ
島左近を5分で!直筆の書状がみつかった?子孫は続いてる?でした。
島左近について、かんたんに語るポイントは、
・筒井順慶の死後、城から姿を消して近江で浪人生活を送っていた
・石田三成が三顧の礼を尽くしたことで、彼のもとで働くことを決意した
・大阪府の民家から常陸国を統治していた佐竹義宣の重臣・小貫頼久と佐竹義久に宛てた書状が2通発見された
・島左近の子孫は、今もなお広島県にておいしい日本酒を醸している
最後まで読んでいただきありがとうございます^^