足利尊氏(あしかがたかうじ)といえば、室町幕府をひらいた人物ですね。
今回、足利尊氏のかんたんな経歴、室町幕府の場所が京都の理由について、紹介していきますよ。
足利尊氏、プロフィール
足利尊氏(あしかがたかうじ)
出身地:丹波(京都府)
生誕:1305年
死没:1358年4月30日
享年:54歳(病死)
時代:鎌倉時代-室町時代
足利尊氏って何した人?どんな人?
足利尊氏(あしかがたかうじ)は、鎌倉幕府をたおして、室町幕府の初代将軍となった人物です。
ここでは、足利尊氏のかんたんな経歴を紹介していきますよ。
かんたんな経歴
1333年、後醍醐天皇は鎌倉幕府をほろぼして、天皇中心の政治をとりもどそうと、狙っていました。
鎌倉幕府に不満があった足利尊氏は、後醍醐天皇に味方しました。
そして尊氏は、鎌倉幕府の役所(六波羅探題・ろくはらたんだい)をほろぼすことに成功しました。
鎌倉幕府はほろび、後醍醐天皇はこのことをとても喜びました。
ところが、後醍醐天皇の政治「建武の新政」は、公家や貴族だけを出世させる、尊氏の理想とはまったく違うものでした。
尊氏の理想は、手柄を立てた武士たちを出世させたかったのです。
だから尊氏は政治に参加せず、京を去りました。
すると後醍醐天皇は、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)らに、「尊氏を討て」と命令します。
そして戦いに敗れた尊氏は、いったん九州に引き下がり、九州で力をたくわえます。
のちに、正成や義貞に戦いをいどんで勝ち、京をうばいとりました。
後醍醐天皇は、京からにげだして、吉野(奈良県)に入りました。
京では、尊氏が光明天皇をたてて、朝廷を開かせます。(北朝)
吉野では、後醍醐天皇が朝廷を開きます。(南朝)
このときから60年間ほど、朝廷(天皇)はふたつにわかれ、争うようになります。
1338年、足利尊氏は、光明天皇から征夷大将軍に任命され、武士による政府「室町幕府」を開いたのです。
こちらの記事で、ライバル・後醍醐天皇について、かんたんにわかり易く紹介しています。
>>>後醍醐天皇を5分で!ホントに島流しにあった?吉野に逃げて南朝を開く?
尊氏は勇敢でいい男だった!
足利尊氏はとても勇敢で人情深く、武士たちから人気でした。
尊氏のために戦う武士たちには、褒美を気前よくあげます。
そんなカリスマ・足利尊氏の周りには、多くの優秀な武士が集まったといいます。
戦のときには、危機がせまっても、あわてることなくいつも笑っていて、味方の武士たちも安心して戦えたのだといいます。
リーダーシップのある、勇敢な男。カリスマであります。
金、銀、財宝には興味なし!?
足利尊氏は、あまり物欲や私利私欲がない人でした。
気にいった部下には、土地をホイホイあげてしまいます。
ホイホイあげすぎて、後でダブルブッキングを起こして問題になっちゃったりもして、ちょっとおちゃめです。
下級な武士であっても、功績はみとめます。
尊氏は優秀な人間は殺しません。
敵将でも、従えば命を助けます。
自分に送られたプレゼントもみんなにあげてしまってすっからかん、でも気にしないというお人だったようです。
なんとも気持ちの良い男だったのですね。(・∀・)
室町幕府の場所はなぜ京都?理由は?
室町幕府の場所はなぜ、鎌倉ではなく京都なのか。その理由について。
これは、
1,敵である後醍醐天皇が、京の近く、吉野(奈良県)にいて、近くを離れるわけにはいかなかったから。
2,室町幕府を正当化するために、京の天皇が近くにいるほうがよかった。
3,鎌倉は「源氏」のちからが強いため、いろいろと不都合があったから。
などがあげられます。
いくら後醍醐天皇の力が、おとろえていたとはいえ、やっぱり強敵でした。
京のちかくをほったらかしにしておくわけには、いかなかったのです。
こちらの記事で、ライバル・後醍醐天皇について、かんたんにわかり易く紹介しています。
>>>後醍醐天皇を5分で!ホントに島流しにあった?吉野に逃げて南朝を開く?
まとめ
ということで、
5分で足利尊氏!室町幕府をひらいた場所が京都の理由って?でした。
足利尊氏をかんたんに語るポイントは、
・鎌倉幕府をたおして、室町幕府をひらいた!
・勇敢でいい男だった!
最後まで読んでいただきありがとうございます^^