〜芥川龍之介が惚れた武将 木曾義仲の魅力〜
「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也」
上記の文章は、当時東京府立第三中学校在学中の芥川龍之介の書いた「木曾義仲論」の一節です。
芥川龍之介はこのような調子で、なんと3万字にも渡って、木曾義仲(きそよしなか)の魅力を書き続けています。
冷徹に社会を、人間を見つめる龍之介の心をとらえる義仲の魅力とは何なのでしょうか。
ここでは木曾義仲の生涯辿りながら、その魅力を紹介して参りましょう。
危機を乗り越え、生涯の友・最愛の人と出会う
木曾義仲は、1154(久寿元)年、武蔵国大蔵館で源義賢の次男として生まれました。
しかし、義仲は2歳の時に早くも命の危機にさらされます。
父・義賢が、兄の義朝との対立で戦となり、殺されてしまったのです。
そして、当時2歳の義仲にも殺害命令が出ました。
しかし、義朝方の武将・斎藤実盛らの計らいで、信州木曾の豪族・中原兼遠の許に逃されました。
この兼遠は、義仲を大切に育てます。
そして、義仲は、この兼遠の息子であった今井兼平や樋口兼光と友として出会います。
また、兼遠の娘の巴(ともえ)も同様でした。
そしてのちに兼平や兼光は義仲の腹心として、巴は、義仲が終生愛した女性として、そして、木曽軍団の有力な女武将となっていきます。
父を失った義仲でしたが、生誕地から遠く離れた木曾の地で、中原家の人たちの情によって、大切に育てられ、義仲最大の宝と言える信頼できる人たちと出会うことができたのです。
平家打倒の挙兵
1180(治承4)年、義仲26歳の時、世の中が大きく変わります。
当時、権勢を誇っていたは平家に対して、皇族の以仁王が平家打倒の令旨を全国に発し、挙兵したのです。
この以仁王の挙兵は鎮圧され、以仁王は討死を遂げました。
しかし、この以仁王の挙兵と死は、燎原の火のごとく、全国の源氏に大きな影響を与えていくのです。
この時、命からがら義仲の許に逃げてきたのが、以仁王の息子の北陸宮でした。
父を殺され、遠く離れた地の自分を頼ってきた北陸宮を義仲は、かつての自分とだぶらせたことでしょう。
義仲は北陸宮を保護し、平家打倒の兵を挙げ、北陸に進出します。
一方、平家も大軍をもって、義仲追討に動きます。
そして、源平決戦の大きな転換点となる倶利伽羅峠の合戦を迎えるのです。
大逆転 倶利伽羅峠の戦い
1183(寿永2)年4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道に向かわせました。
この大軍の前に、義仲の軍勢は押され、越前・加賀からの後退を余儀なくされました。
さらに勢いを増して越中に侵攻した平家軍に対し、義仲は3万騎の軍勢で砺波山に布陣。
にらみ合いになりました。しかし、この間、義仲は樋口兼光の軍勢を平家軍の背後に回らせました。
そして、5月11日深更。突如として大音声をあげながら、義仲軍は三方から平家軍を攻め立てます。
この時、義仲は牛の角に松明をつけて突っ込ませた火牛の計を用いたとも、牛の角に剣を縛って平家陣に突っ込ませたともいわれています。
この攻撃で、平家軍の多くが倶利伽羅峠の断崖に転落し、平家軍は大敗北を喫したのです。
この大逆転勝利で勢いのついた義仲軍は、京都に向けて軍を進めていくのです。
悲しい再会
倶利伽羅峠の勢いを駆って、敗走する平家軍に加賀国篠原において、義仲は追撃をかけました。
この戦いで、再び平家軍は敗れ去ります。
しかし、この時、一人の武士が義仲軍の武将・手塚光盛によって討ち取られました。
平家軍が総崩れとなる中、単騎で殿を務め、奮戦の末に打ち取られた猛者でした。
首実検の際に、この武士が白髪を黒く染めた老武士であったこと知らされた義仲は、その首を池で洗わせたところ、何とかつて義仲を逃がしてくれた命の恩人・斎藤実盛の首だったです。
実盛は、源氏が滅んでのち、平家の碌を食んでいました。
実盛は、平家への恩を返さねばという想いと源氏再興に向かって飛躍する義仲への想いの狭間で、人知れず死んでいこうと覚悟を決めていたのです。
義仲は、命の恩人の死に、人目もはばからず涙したと伝えられています。
禁中のタブーに触れた義仲
勢いにのった義仲軍を平家は食い止めることができませんでした。
平家は、安徳天皇を奉じて、京都から脱出、西国に向けて落ちて行ったのです。
義仲は7月28日に京都に入洛し、後白河法皇から直々に平家追討の院宣を受けたのです。
合わせて、京都の治安維持の役目も命じられました。
しかし、この京都滞在中に、義仲は禁裏のタブーに踏み込んでしまいました。
安徳天皇の後の天皇に誰がなるかという話し合いの中で、義仲は北陸宮を推しました。
これが、武士ごときが皇室の後継に口を出すとはという不快感を皇族や公家たちに与えました。
後白河法皇と対立しても北陸宮を推したのは、父を討たれて命からがら逃げたという北陸宮の生い立ちが、義仲自身に重なったのかも知れません。
これも北陸宮に向けた義仲の「情」というべきものでしょう。しかし、この北陸宮への「情」が、義仲を破滅へと導いていくのです。
情を重んじた義仲
後白河法皇は、その後、源頼朝と通じて、義仲を討たせようと画策します。
頼朝も、後白河法皇と結び、源範頼や源義経の率いる軍勢が、京都を目指します。
この時、義仲は既に京洛での支持を失っており、義仲に従う兵はわずかでした。
そして、宇治川の戦いで敗れ、信濃を目指して逃げていく義仲の傍にいたのは、わずかな兵と苦楽をともにした今井兼平や巴といった腹心たちでした。
ここで、義仲は巴を逃がします。
最期まで共にとすがる巴に義仲は「女を死なせたとあっては義仲の名折れ」と、巴を戦場から離脱させます。
そして、近江国粟津についたところで数騎になっていた義仲の前に範頼・義経側の一軍が現れました。
「普段は何とも感じない鎧が、今日は重たく感じる」
こう弱音を吐く義仲を兼平は叱咤します。
さらに、「こうなったからには、兼平、ともに戦って討死しよう」という義仲に、兼平は「大将が名もなき雑兵の手にかかっては名折れ」として、自害を勧めます。
兼平は義仲の自害の時間を稼ぐため、奮戦しますが、義仲は馬が足を泥沼に取られたところをあえなく討ち取られてしまいます。
兼平も、義仲の後を追って壮絶な自害を遂げました。
こうして、源平の合戦において、大きな影響を与えた英雄・木曾義仲は生涯を終えたのです。
「情の人」
義仲は、将としては大局を見失ったのかも知れません。
しかし、命の恩人の死に涙し、似た境遇の北陸宮に肩入れし、最期は総大将の名誉を捨ててまで、友といえる存在の兼平と一緒に死のうとする。
一人の男子としてはひじょうに人間味のある義仲像が浮かんでくるように思えます。
情が命取りになった義仲ですが、その情の厚さこそが魅力でもあるのです。
(筆者・黒武者 因幡)