一休宗純(いきゅうそうじゅん)といえば、あの一休さん、お坊さんのことです。
「すきすきすきすきすきっすき♪」なイメージですが、実際はどんな人物だったのでしょうか。
一休さん、一休宗純のエピソード、逸話やかっこよかった生き方を紹介していきますよ。実は、かな~り破天荒だったようですから、けっこう面白い人物です。
一休宗純、プロフィール
一休宗純(いきゅうそうじゅん)
生誕:1394年2月1日(明徳5年1月1日)
死没:1481年12月12日(文明13年11月21日)
出生:京都
死因:マラリア
時代:室町時代(戦国時代)
僧、詩人
実は一休宗純は天皇家の血筋を引いているとされています。
お母さんの側も平安時代に活躍した藤原氏の家系と伝えられており、由緒のある家系の息子だったのですね。
通称”一休さん”は、やがて禅(ぜん)のお坊さんになるのですが、幼少時より頭の回転が速く、【とんち】を活かして大人をまかし、その伝説が今も語り継がれています。
※【とんち;頓知】…その場でとっさにでる智恵のこと。
一休宗純の凄さ
一休宗純の凄さといえば、それはもう現代でアニメ「一休さん」で語りつがれている人だということでしょう。
一休さんの“とんち”の中でも「このはし(橋)渡るべからず」は有名ですが、このとんちが生まれたのは8歳のときだったそうです。現代でなら、小2でこの頭の回転ですから生意気です。
また、大人になってからは、琵琶湖の船で座禅をしていたとき、暗闇でカラスが鳴くのを耳にし、「カラスは見えなくてもそこにいる(のがわかる)。仏もまた見えなくても心の中にいる」と悟ったといいます。
晩年に近づくと、一休宗純が尊敬していた偉いお坊さんが建てた妙勝寺が荒れ果てていたために、20数年をかけてお寺を再建しました。
その後、新しくお寺に「酬恩庵」という名をつけてここで教えを広めるようになります。
宗純の活動を知って、さまざまな文化人が彼を訪れ、その偉業を称えました。酬恩庵は別名、一休寺と呼ばれ今でも親しまれています。
面白い、凄いエピソード?
有名な偉人たちの中でも、一休宗純は面白いエピソードがたくさんある人です。
その破天荒っぷりは、「大うつけ」といわれた織田信長にも匹敵しているようです。順番にみていきましょう!
自由奔放で奇行ばかりの人生?
実際の一休さんは、めっちゃ破天荒で自由奔放だったとして語られています。
仏教の戒律で禁止とされていたことは、ほとんどやりました・・・。
大切な印が押された重要な文書を焼いてしまったり、僧侶には禁じられていた肉や酒を摂取しまくり。
さらに、かなりの女ったらしでもあったようです。
それでも人々には親しまれ「老若男女はもちろん、雀までなついた」と語りつがれるほどですから、よほど凄い人物だったのでしょう(・∀・)
自殺未遂をした?
早くに出家し、また師匠の死に心を痛めたり、数々の困難を極めたために2度も自殺未遂をしたこともあるのです。
その後に辿り着いた境地が「ありのままに生きる」というものでした。そうして、一休さんの破天荒が開花したようです。
しかし、一休さんが死ぬ間際に言った言葉は「死にとうない」だったとか。
僧らしくないかもですが、まさに一休さんらしい言葉だったのでした。
仏さまにも背を向けた?
小さい頃からとんちに長けていた小僧時代の一休さん。
あるとき、高いところにあるろうそくを息で吹き消した宗純。先生のお坊さんから「どうやって消したか」をきかれ、ふ~っと吹いたと答えると、「(ろうそくの向こうの)仏さまに息をかけるとは何事だ!」と叱られてしまいます。
しばらくして一休宗純が仏さまに背をむけてお経を読んでいるので、先生が何ごとか尋ねると「息がかかっては申し訳ない」と答えたそうです。確かに…。
こんな感じで、まさに真性「反逆のカリスマ」だった一休さん。
「戒律なんて守らないほうが人間らしくて良い」とも言った一休さんは、いわゆる奇行という手段で世間に真実を訴え続けていたのです。
この破天荒なリアル一休さんを、ちびっこ達が知ったらビックリしてしまうのでしょうね(・∀・)
ちなみに、破天荒なら負けていない、大うつけ(常識がない、愚行ばかりする)と呼ばれた、織田信長の本当の性格についてはこちらの記事で紹介しています。
まとめ
一休宗純のエピソードを紹介しました。
アニメ「一休さん」とリアル一休さんはちょっと違うようでしたね。
実際は、壮絶な人生を送り、常に信念のある行動(いわゆる奇行)で自分を表現してきた人なのです。
そんな不思議な行動も目立った一休宗純でしたが、庶民には親しまれ、仏さまの教えを広めることに力を入れました。
かな~り魅力的な男だったという事ですね!
ということで、
一休さん(一休宗純)のカリスマ逸話や生き方がかっこいい!でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^