幸徳秋水(こうとくしゅうすい)といえば、思想家ですね。
自由・平等・博愛をテーマに、社会主義を目指した人物です。
今回、幸徳秋水のかんたんな経歴、労働問題の考えって?について、紹介していきますよ。
幸徳秋水、プロフィール
名前:幸徳 秋水(こうとく しゅうすい)
出身地:高知県幡多郡中村町(現・高知県四万十市)
生誕:1871年11月5日
死没:1911年1月24日
享年:39歳(死刑)
時代:明治時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
幸徳秋水(こうとくしゅうすい)は、俵屋を営む父・篤明(あつあき)と、母・多治(たじ)の三男として、高知県幡多郡中村町(現・高知県)に生まれました。
本名は、傳次郎(でんじろう)と言い、秋水という名前は、師であった中江兆民(なかえちょうみん)が付けました。
もともと実家は裕福で、かつては幸徳井(かでい)と名乗る陰陽師の家でした。
しかし秋水の生まれたころは、家業の俵屋は傾きかけていました。
さらに、2歳になると、父が亡くなってしまいました。
その後は家業を懸命に続ける母に、女手ひとつで育てられます。
幼いころは、とても体が弱く内向的でした。
でも、父の残した漢学書(中国伝来の書)を読んで知識を付け、ビックリするほど高い学力を身につけていました。
秋水の強い希望で6歳で小学校に入りました。
8歳になると、儒学者・木戸明(きどめい)の修明舎で漢学を学びます。
ここでもめっちゃ頭がよくて、「神童」と呼ばれます。
またこの頃、高知では板垣退助率いる自由民権運動のブームが高まっていました。
秋水も興味しんしんで、板垣退助が中村町で演説を行ったときには、祝辞を述べています。
ふつうよりも1年早く中学に入学しました。
が、台風の影響で校舎が壊れ廃校となってしまいます。
勉強を続けたい秋水は、母のやりくりしたお金で高知中学校に転入します。
17歳になった秋水は東京にいきます。
自由民権運動家の林有造(はやしゆうぞう)の元で学び始めました。
が、政府の自由民権運動を抑える保安条例によって東京から追放され、高知へと戻ります。
翌年、再び高知を離れ、東洋のルソーと呼ばれた中江兆民(なかえちょうみん)のもとで、様々な学問に取り組みます。
文筆家としてのテクニックも教わり身に付けます。
そして18歳のとき、中江兆民の家族とともに東京にいき、国民英学会に通い英語を学びました。
卒業した後は中江の紹介で板垣退助の「自由新聞」に入社し、翻訳の仕事を担当します。
その後は、「広島新聞」や「中央新聞」へと移り、翻訳の仕事以外に原稿を書き、ジャーナリストとしてデビューしました。
「中央新聞」が伊藤博文に買収されると退社しました。
黒岩涙香(くろいわるいこう)の新聞・萬朝報(よろずちょうほう・)の記者として「自由党を祭る文」など世間から注目を浴びる論文を発表します。
日清戦争に勝った日本は、産業革命が起こり、一時的に景気が良くなりました。
が、その後は不景気へと陥り貧富の差が拡大し大きな社会問題となりました。
この社会問題がきっかけとなり、安部磯雄と片山潜が設立した「社会主義研究会」に入ります。
社会主義者として日本の社会をより良くしていこうと決意したのです。
1901年、「廿世紀之怪物帝国主義(にじっせいきのかいぶつていこくしゅぎ)」で軍事力で民族や国家を侵略しようとする帝国主義を猛烈に批判し非戦論を訴えます。
そしてこの頃、日本初の公害となった足尾鉱毒事件で、田中正造が明治天皇への直訴する際の書状を用意しました。
実はこれ、秋水が書いたものでした。
また、師である中江兆民が亡くなると、これまで学んだ思想をまとめた「兆民先生」を発表し、自由・平等・博愛を世に広めました。
その後は、「平民新聞」を創り、日露戦争の間もずっと非戦論を貫きます。
が、1905年、平民新聞の掲載記事が問題視され、5ヵ月間の禁固刑に処せられます。
政府を批判しすぎて、ナマイキだ!ということですね。
出る杭は打たれたのです。
出所後は、世界の社会主義者たちとの集結、そして自由な言論を求めてアメリカに渡りました。
滞在中に、普通選挙無用論や、無政府組合主義の影響を受け、帰国後の直接行動論へと繋がりました。
この直接行動論は、議会政策論との対立を生み1908年の「赤旗事件(社会主義者弾圧事件)」の引き金になりました。
直接行動論とは、政治での目的を達成するための抗議活動の一つです。
1910年6月に、「幸徳事件」で逮捕されます。
幸徳事件とは、「明治天皇暗殺計画」で全国の社会主義者や無政府主義者が逮捕された事件です。
13名が死刑、12名が無期懲役となった事件です。
幸徳秋水も死刑判決を受けています。
そして、1911年に死刑が執行されたのでした。
労働問題の考えって?
労働問題の考えについて。
幸徳秋水は、過激な社会主義者でした。
社会主義は、労働者の暮らしを良くするために、資本主義を止めて、国家を豊かにしようとした考えです。
これまでの勝手に戦争に駆り立てられ、残された家族が貧しくなってしまう仕組みを変えるために、非戦論を訴え続けました。
その背景には、日清戦争で勝利し、日露戦争へと突き進み、工業製品のニーズが高まり、一時的に好景気となった日本社会がありました。
資本家や地方の地主は、大規模な工場を作り賃金労働者を増やし、農業中心から工業中心の経済へシフトし始めた時期です。
しかし、好景気で良い思いをしたのは資本家や地主だけでした。
労働者は、過酷な労働と安い賃金で働きつづけました。
結果として大きな貧富の差が生まれました。
農村部も例外ではなく、土地を持たない小作人が、地主へ払う小作料が重くなり、苦しい生活が続いていたのです。
そこで秋水は、片山潜たちと、社会民主党を結成しました。
基本的人権の保護、そして労働者と農民の保護を訴えつづけました。
その熱意が過激すぎなものになって、明治天皇暗殺を企てて、悪人となってしまったのです。
まとめ
ということで、
5分で幸徳秋水について!労働問題の考えって?でした。
幸徳秋水をかんたんに語るポイントは、
・幼いころから「神童」と呼ばれるほどに頭脳明晰だった
・自由・平等・博愛をテーマに社会主義者として非戦論を訴え続けた
・明治天皇暗殺を企てた幸徳事件のリーダーで死刑となった
最後まで読んでいただきありがとうございます^^