江戸時代

水野忠邦を5分で!天保の改革ってなに?出世のために国替え?

水野忠邦(みずのただくに)といえば、江戸の三大改革の一つである「天保の改革」を行った人物です。

授業にもよくでてくる人物ですから、名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。

今回、水野忠邦のかんたんな経歴天保の改革ってなに?について出世のために国替え?について、紹介していきますよ。

 

水野忠邦、プロフィール

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水野忠邦(みずのただくに)
出身地:肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)
生誕:1794年7月19日
死没:1851年3月12日
享年:58歳
時代:江戸時代後期

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

1794年6月23日、水野忠邦は、唐津藩(現在の佐賀県)の3代藩主の次男として生まれました。

兄が早くに亡くなったため、跡取りとなり家督を相続しました。

水野忠邦は藩主となった後、どんどん出世していきます。

 

1817年、唐津から浜松藩へ(佐賀県ら静岡県へ)領地を移しました。

これを「転封(てんぽう)」や、「国替え」といいます。

同年に寺社奉行兼任となったことで、幕府の重臣となりました。

 

その後、徳川11代将軍・家斉(いえなり)のもとで活躍していきました。

1825年に大坂城代

1826年に京都所司代

1828年に西の丸老中

1834年に本丸老中

1839年に老中首座

順調に出世を果たしていったのが分かります。

 

1841年に11代将軍・家斉が亡くなった後、「天保の改革」にとりかかります。

しかし、上知令(土地没収の命令)を強行しようとしたため、大名・旗本の反対にあいました。

そして老中をクビになり、失脚してしまいました。

 

一旦、老中をはずされた水野忠邦でしたが、後任の老中が将軍家慶の怒りを買ったことで、水野忠邦は老中に再び任命されました。

しかし、とくに重要な任務もなかったので、そこまで活躍することはありませんでした。

 

年の1845年には「天保の改革」時代の不手際が目立つようになってきて、水野忠邦は隠居・謹慎が命じられました。

その後まもなく、山形藩に懲罰的転封(罰的に領地を移される)を命じられました。

6年後の1851年に、癪(しゃく・胃がんや肺がん、心臓病等)の病気により死去しました。

 




天保の改革ってなに?超かんたんに説明

時の世間では、大飢饉、百姓一揆、打ちこわしが起きて、幕府や政治は動揺していました。

また、慢性的な財政不安があり、不安定な状況でした。

そこで水野忠邦は、農民を重視した政策「天保の改革」をおこないました。

ここでは、天保の改革をかんたんにわかり易く紹介していきます。

 

(1)人返しの法

江戸にいる出稼ぎ労働者を農村に返す政策です。

江戸の人口を減らして農村人口を増やすことで、米の収穫を増やし、結果として幕府収入の根幹である年貢収入を増加させることが狙いでした。

しかし、そもそも農村で仕事が無い人々が江戸に出てきており、田舎に無理やり返したところで米の収入が大幅に増えることはありませんでした。

結局、効果を上げずに失敗してしまいました。

 

(2)株仲間の解散

株仲間とは、幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まりのことです。

当時、物価の高騰が庶民を苦しめていました。

そこで水野忠邦は株仲間が営業を独占していることが物価高騰の原因であると考え、株仲間の解散を命じました。

株仲間を解散させて、経済をもっと自由にすることで物価高騰を止めようとしたのです。

しかし、株仲間の解散により、株仲間を中心として機能していた流通システムが混乱してしまい、かえって物価が上がってしまいました。

数年後、結局また株仲間が結成されたというから、この政策も失敗だったということがいえます。

 

(3)上知令(じょうちれい)

上知令とは、江戸や大坂周辺の大名たちを、幕府の直轄としようとした政策です。

豊かで年貢収入の多い江戸、大坂周辺の土地を没収して、他の領地を大名たちに与えることによって財政収入を増やそうとしたのです。

しかし、この政策に対して土地を取り上げられる大名・旗本から猛烈な反発を受け、結果的に実行に移すことはできませんでした。

 

のように、どの政策も失敗に終わりました。

「上知令」に関しては、実行することもできませんでした。

天保の改革の失敗によって、幕府の弱さが世間に見えてしまい、幕末の動乱へと繋がっていく結果となってしまったのでした。

 




国替えは出世のため?

野忠邦は、国替え(領地をうつすこと)をしたことで、ぐんぐん出世していきました。

水野忠邦は幕府内で昇進する事を強く望んでいて、多額の賄賂(わいろ)を使って出世していました。

しかし、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから水野忠邦は長崎を長期間離れることができなっていました。

それではこれ以上の昇格は難しくなります。

そこで水野忠邦は翌年、25万3,000石の唐津から15万3,000石の浜松藩へ(佐賀県から静岡県へ)の国替えを自ら願い出ました。

警備の負担のない浜松藩へ領地を替えることで、昇進を目指そうとしたのです。

 

10万石も石高が減ってしまうこの転封に家臣は猛反発しました。

実際に国替えを止めるために家老が自殺したくらいです。

しかし、水野忠邦の気持ちは変わらず、家臣の反対を押し切って浜松藩への転封を成し遂げてしまいました。

 

この国替えにより水野忠邦の名は広く知れ渡り、結果として大きく昇進していきます。

幕府の重臣となった事で、今度は逆に他人から賄賂(わいろ)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげることができたそうです。

自分の出世のために家臣を犠牲にする姿勢は、水野忠邦の性格をよく表しているといえます。

 

まとめ

水野忠邦を5分で!天保の改革ってなに?出世のために国替え?でした。

水野忠邦についてかんたんに語るポイントは、

・自身の出世のためには手段を選ばなかったこと
・天保の改革を行ったこと
・天保の改革が失敗に終わってしまったこと

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
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