今川義元(いまがわよしもと)といえば、ゲームやアニメなどでは必ずと言っていいほど白塗りでコミカルな性格で描かれています。
今では愛されキャラとしてじわじわと人気を集めている戦国大名ですね。
今回、今川義元のかんたんな経歴、なぜほとんどの肖像画が白塗りなのか、人質となった家康との関係について紹介していきますよ。
今川義元、プロフィール
今川義元(いまがわよしもと)
出身地:駿河・遠江国(現・静岡県)
生誕:1519年
死没:1560年5月19日
※1560年6月12日という説もあり。
享年:41歳(討死)
時代:室町時代(戦国時代)
何した人?どんな人?
今川義元は、今川氏第11代当主で、現在の静岡県一帯を治めていた戦国屈指の最大勢力のトップでした。
婚姻関係によって武田信玄や北条氏康と義兄弟にあたる偉人です。
1560年の「桶狭間の戦い」で織田信長に負け討死してしまったため、敗軍の将という印象が強いですが、実際はとっても優秀な軍師でもあるのです。
ここでは、今川義元のかんたんな経歴を紹介します。
かんたんな経歴
今川義元は、駿河・遠江国(現在の静岡県)を守護する父・今川氏親と、母・寿桂尼の5男として生まれました。
幼名を「芳菊丸(龍王丸とも言う)」と言います。
この当時、5男といえば最も家督から遠い存在であったため、彼が4歳(6歳という説もある)を迎えた1525年に仏門へと出され、臨済宗の善徳寺(ぜんとくじ)に預けられました。
そして太原雪斎と共に京都へ上り、五山(臨済宗)について学び、学識を深めていくうちに、京に住まう人々との人脈が自然と増えていったのです。
1526年、父・今川氏親が亡くなると、家督が兄・今川氏輝へと継がれました。
すると、三河国を放棄し、甲斐侵攻(現在の山梨県)の計画を立て始めます。
そして今川義元が18歳を迎えたとき、兄の命令によって、京から師である太原雪斎と共に急いで駿河国へと戻ったのですが、その直後、兄・氏輝は24歳という若さで急死してしまったのです。
また、次の後継者であった兄・今川彦五郎も氏輝と同じ日に亡くなったため、ついに正室の子である今川義元へと今川家の継承権がめぐってきたのです。
しかし、今川家の有力人物・福島越前守(くしま えちぜんのかみ)がこれに猛反対。
今川氏親の側室の親戚にあたる玄広恵探(げんこうえたん)をゴリ押ししたため、「花倉の乱」が起こります。
福島越前守らは、今川館へ攻め込みますが、太原雪斎と岡部親綱らの奮闘、そして義元が相模国の北条氏綱への支援を得たため、花倉城が陥落し、玄広恵探は20歳という若さで自害します。
こうして無事、今川義元は、今川家第11代目当主となりました。
そして、寄親・寄子制度(親子のような主従関係)を設けるなど合理的な軍事改革を行いました。
また、領国経営や外交関連に優れた才能を発揮し、誠実な家臣たちを大切にし、支配体制を整えていったのです。
1537年、武田信虎の娘・定恵院(じょうけいいん)を正室に迎えいれました。
すると、武田家と同盟を結ぶことになりますが、この同盟に異議を申し立てたのが、北条氏綱です。
北条家は武田家と同盟を結ぶ前に今川家と相駿同盟を結んでいたため、甲駿同盟を良しとしなかったのです。
ついに、北条家は今川家を攻撃してきます。
「河東の乱」を起こし、富士川以東の地域を北条軍に占拠されてしまいます。
さらに北条氏綱は、遠江の堀越氏や井伊氏などと手を結び、今川義元を挟み撃ちにしたのです。
そんな微妙な状態のなか、1538年に長男・今川氏真が誕生。
1540年には尾張の織田信秀が三河国へと侵攻をしてきます。
義元は三河の諸将たちと連合を組み、1542年に織田信秀と「第一次小豆坂の戦い」を始めるのですが、織田軍勢の猛攻に遭い、破れてしまいます。
「第一次小豆坂の戦い」のさなか、1541年に敵だった北条氏綱が死去。
北条氏康が家督を継ぐことになりました。
その後、「河越城の戦い」では北条氏康を追い詰め、河東の奪還に成功しました。
また、西三河国を治める松平広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を人質に迎え入れて、尾張の織田家から西三河の地を守ったりしました。
1558年、息子・今川氏真に家督を譲った義元は、しばらく隠居生活を送っていました。
ですが、そのあいだに織田家に占領された大高城(現在の名古屋市)をとりもどすために進軍を開始。
最初は順調に進軍していた今川義元ですが、1560年、桶狭間山で休息中に織田信長に攻撃を受けます。
奮闘するも最期は、織田家の毛利良勝(もうりよしかつ)に討ち取られました。
家康を人質にしてた?
今川義元はあの徳川家康を人質に迎え入れていました。
幼い家康は竹千代という名前でしたね。
家康を人質として迎えた今川義元ですが、牢屋に幽閉したり、手足を縛って監禁するなどは一切しませんでした。
それどころか、家庭教師として自身の師である太原雪斎を付け、義元の姪を正室に迎えるなど、とっても手厚いもてなしをしたのです。
さらに、家康は、元服を迎えたときは、今川義元の「元」の字を貰い、”松平元康”という名を名乗るようになります。
家康の家臣(三河武士)たちは、家康のような厚遇はされておらず、戦の際は必ず最前線に立たされるなど危険な立場にありました。
家康が人質になった理由としては、
ある日、尾張国を治める織田信秀が三河国へと侵攻を始めたため、父・松平広忠は主君である今川義元に、家康を人質として差し出す代わりにより一層の加勢を頼んだ
ということです。
家康は「桶狭間の戦い」の後、今川家から独立を果たしたため、今川家より裏切り者として嫌われるようになります。
そのため、家康は泰平の世を迎えると、過去に今川家から酷い仕打ちを受けたという創作話を作り、世間へ広めたという噂があります。
でもそれは正確な史料に書いてあるわけではないので、ちょっとしたエピソードというレベルですね。
肖像画などが白塗りで変?
今川義元といえば、肖像画が白塗りのイメージがめっちゃ強いですよね。
ゲームやアニメなどのキャラクターとして登場するときも、必ずと言っていいほどお顔が白塗りとなっています。
こんな感じで。
あれはなぜなのでしょうか。
その理由は、今川義元は、かつて公家の人々が行っていたメイクや服装が大好きだったからなのです。
この当時ではそんなに珍しいものではなかったこのメイク。
今川義元だけではなく、いろんな戦国大名もこのメイクをしていたのだそうですよ。
でも、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などはこういった白塗りメイクの肖像画が残っていないため、より強烈に「今川義元は白塗り!まろ!」という印象が付いてしまったのです。
ヘンテコなメイクではありますが、当時としては、教養と地位の高さを示すものであったため凄いことでもあるのです。
まとめ
今川義元を5分で!なぜ肖像画は白塗り?家康との関係は?でした。
今川義元をかんたんに語るポイントは、
・幼い頃に仏門に出されている
・家督を継いだ兄たちが立て続けに亡くなったため、5男であった義元に家督が回ってきた
・治世や婚姻よりも甲斐の武田や相模の北条との関係を強くすることに努め、積極的に領地を拡大してゆくことに専念していた
・教養と地位の高さを表すために顔を白塗りにしていた
・人質となった家康には手厚いおもてなしをしていた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^